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ホリエモンの、時間の使い方=生き方、命=時間、「プライド、それおいしいの?」に共感 [人生・生き方・生活・人間関係]

前回より、イソップの「アリとキリギリス」、ホリエモン(堀江貴文)の「ゼロ」を引き合いに、生き方について考えてみたけど・・・
自分の場合は、将来のための安定も欲しいしけど、将来のために今を犠牲にすることもできず、アリ的生き方3分、キリギリス的生き方7分というところか。


結局、体力も気力も充実して、伸びしろがある若い時(夏)をどう生きるか・・・
将来(冬)のために生きるのか、それとも、将来(冬)のことは置いておいて、今(夏)を思いっきり生きるのか・・・

たとえば、漫画家、作家あるいは芸能人、音楽家、起業家などなど「不安定この上ないフリーランス」に興味があり、できれば、そういう仕事をしたい、と思っていたとする。

けど、この先、将来のことを考えるとやっぱり不安。
倒産する可能性が低い大企業の正社員、または公務員になるのが、安全な生き方かもしれない。絶対安心ではないけど、リスクは低い。よほどのことがない限り、クビにはならないし、定年まで給料が保障される可能性が高い。

どっちをとるか、やはり悩むよなあ。

フリーランスを目指したものの、なかなか上手くいかず、後になって、どっかそこそこ待遇のいい会社の正社員になりたいと思っても、新卒でないと厳しかったりする。新卒でないにしろ、若い時でないと厳しい。

歳をとると、どんどんチャンスがなくなる。不利になっていく。
結局、モノにならず、歳をとり、冬が近づいた時・・・やっぱり「アリ的生き方=安定を求めた堅実な生き方をするんだった」と後悔するかもしれない。

いや、若い時目一杯自分がやりたいことを目指したのだから、後悔はないのかもしれない。

アリ的生き方をし、老後はそこそこ暮らせても、若い時、自分が目指したかったことに挑戦しなかったことを後悔するかもしれない。やり残した感があるかもしれない。

あるいは、若い時の夢など、歳をとったら別にどうでもよくなり、堅実に生きてきて良かった、と思うかもしれない。

漫画や作家については、それで生計を立てたいのか? それとも作品が発表できればそれでいいのか? だよなあ。
私の場合は「発表ができればいい」ということで、ネットがあるので、それは可能となる。ただし、見てくれる人は少ない。多くの人に見てもらうためには?、というのがわたしの課題だ。(もち、その前に、おもしろい作品が作れるのか、が第一の課題だけれど)

プロになりたいと考える場合、お金はもちろんだけど、たくさんの人に見てもらえるから、仕事となれば自分の時間を創作活動にめいっぱいつぎ込めるから、というのもあるだろうな。

ホリエモンの言う(勝間さんも同じようなこと言っていたよな)「自分に投資しよう」というのは、お金だけじゃなく、時間も含まれているのだろう。
というか、時間のほうが重要かもしれない。

自分の時間を自分に、自分のために投資する、漫画家や作家を目指す場合、自分の時間を自分の創作活動に使う、ということで、どの程度の時間をそこに割くことができるか=投資することができるか・・・

いや、別にプロを目指すのではなくても、趣味でも「自分の時間をどれくらい投資するのか(投資できるのか)」、やっぱりたくさん投資したい(趣味にたくさん時間を使いたい)かも。

ピアノの技術を磨くのも、莫大な時間投資が必要。
私の場合、プロのピアニストを目指すわけではないけれど、上手くなりたい、今の技術を維持したい、となると、相当の時間を投資しなければならない。
けど、投資したからといっても、ただの自己満足で終わる。

お金もそうだろうけど、時間の使い方(時間の投資)が、生き方に直結するよなあ。

そして、もしも家庭を持ち、子どもを持った場合、自分の時間は家族や子どものために使うことになる。お金の使い道も子ども優先となるだろう。将来のことを考えざるを得ない。

そういえばイソップのアリとキリギリスでも、アリはどうやら家庭持ち、キリギリスは独身ぽい^^

ま、それでも「今、楽しもうよ。10年後20年後のことなんて分からないんだから。将来を心配したって無駄」というホリエモンの言葉に勇気をもらったのであった。

たしかに10年前20年前、世の中がこんなになっているなんて、まったく想像できなかったよなあ。
漫画界もかなり変わったみたい。
https://note.mu/saintkisaki/n/nb7e837cf27f5
http://dotplace.jp/archives/10214


ああ、そうそう、ホリエモンの言葉といえば、もうひとつ印象に残ったことを紹介。
http://toyokeizai.net/articles/-/51523?page=3

「プライドなんか持つ必要はない、自分が自分を信じればいい」
「プライド…なにそれ、おいしいの?」

そーいや、私の場合、歳とってから、プライドはなくなった。だから、すごくラクになった。すると挑戦することにも、それほどハードルを感じなくなる。失敗すれば恥ずかしい=プライドが傷つくから、プライドなんてないほうがいいかも? 

プライドって人生充実させる(チャレンジする)のに『邪魔』かも?


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「今を生きよう」というホリエモンの生き方について [人生・生き方・生活・人間関係]

前回の続きと言えば続き。

イソップ童話の「アリとキリギリス」について。
日本で出回っている話は、遊び暮らして何の貯えもしていないキリギリスを、遊びもせずコツコツ働いて貯えをしていたアリが、助けてやって、めでたしめでたし・・・だけど。

原作は、アリは助けず、キリギリスは死んでしまう。

アリを冷酷と捉えるか、それとも「仕方ないよね」と捉えるか。

この物語が訴えたいことは何だったのか・・・

「将来に備えないと、キリギリスのようなことになるよ」
「アリのように世間は助けてくれない。冷たいよ」
「どんな生き方をしてもいい。けど自己責任で」

いろいろ考えられる。

まあ「自己責任」が一番スッキリする解釈かもしれない。キリギリス的生き方だって認められていい。けど、アリに助けてもらうことが前提となると、それは違う。アリに助けてもらうことが前提の自由は、やはり不公平だ。

そう言えば、アメリカのある州では、金持ち(高所得者、資産持ち)が集まり、自分たちで自分たちが納めた税金の使い方を決め、低所得者を排除する街がある。

が、高所得者の言い分も分かる。
「自分たちは、低所得者を養うために存在しているのではない。自分たちに還元がなく、ただただ自分の稼ぎをごっそり取られるだけ、これは不公平だ」と。

人間、聖人にはなれない。

共産主義が壊れたのは、あまりに「理想」を求めたからかもしれない。

日本の国民年金制度だって、生活保護制度に較べたら、あまりに不公平だ。
資産がない人は、年金など納めず、老後は生活保護に頼った方がずっといい。
資産がある場合、年金を納めず、資産を食いつぶし、生活保護に頼ればいい。

そういえば、生活保護を担当する職員がぼやいている日記を見た。

生活保護受給者は、そのまんまの額をもらえる。天引きがない。
そして、いろんな手当てがつき、医療費も無料、ほかNHK受信料、水道料金基本料も。
病院へ通うタクシー代も出る。

生活保護受給者に子どもがいる場合、完全にその職員の給料を上回る。
職員の給料は、税金や保険の天引きがあり、その差に愕然とするらしい。おまけに職員は普通に医療費を払うし、NHK受信料も水道料金も払う。

弱者っていいなあ(弱者の権利を獲得できた既得権益者って得だなあ)と思ってしまい、不平が出てしまう。

それが人間・・・かもしれない。

弱者を救うため、どれくらいのお金をかけるか、弱者ではない人からどれくらい負担させるのか。

おそらく、ほんとうのお金持ち(資産家)は、ありとあらゆる手段を使い、さほど税金を納めないですむようにしているかもしれない。税率の低い海外に逃げることもできる。

結局、ターゲットになるのは、中間層、普通の庶民だ。
コツコツ働くアリさんである。

イソップのアリは富豪ではない。
コツコツ働き、やっと生活している普通の庶民だ。

分け与えることのむずかしさ。
余裕があるわけでもない中、恵まれない他者に分け与えることが人はできる立派だ。
ただ、言えるのは、「それを強要することはできない。分け与えない者を非難し、悪人に仕立てるのはいけない」と。
(ま、国家・社会という枠組みの中で、税として徴収され、恵まれない人へ分配されるということで、全く分け与えない『イソップ原作のアリ的な生き方』をしている人はいない)


さてさて、これでは前回と同じことを話しているだけではないか・・・ということで、今回はちょっと視点を変えてみる^^

そう、アリ的生き方、つまり将来を安心して暮らすために、今はせっせと働く生き方が本当にいいのか? いや、その「コツコツ働くこと」が楽しく、充実しているのであればいいのだけど、もし「ガマンしてやっている」「仕方なくやっている」のだとしたら・・・将来のために今をガマンしている、今を犠牲にしているのだとしたら・・・

そんなの馬鹿げた生き方である、今を生きよう、将来のためにどんなに備えたところで、将来はどうなるか分からない、そんな不確かな将来のために今を犠牲にするなんてやめようよ、過去を振り返るのも時間の無駄だが、将来を不安がるのも時間の無駄、貯金より自分に投資、今を充実させよう、今を楽しく生きよう。

・・・というようなことが、ホリエモン(堀江貴文氏)の「ゼロ」に書かれてあった。
ほかのホリエモンのインタビュー記事の中でも、よく見かけるホリエモンの意見だ。

そんなわけで、今を楽しく、今を生きるということでは、キリギリス的生き方のほうが「ホリエモン的生き方」に近いかも。

ただしホリエモンは「自由に働きたい人」「自分の仕事がしたい人」である。
なので、ここでは「キリギリス的」は「遊んで暮らすというより、自分の思うがままに自由に生きる」という意味で使う。

もしもアリが「自分の思うがままに、好きなように仕事をし、稼いでいた」としたら、キリギリスを助けたかもしれない。
助ける、という行為は、余裕がないとできない。物質的(経済的)」にも精神的にも。

イソップのアリはあくまで「我慢して働いていた」「本当はしたくないけど、老後(冬)を安心して過ごしたいので、今(夏)を犠牲にし、仕方なく労働をした」のだろう。そうしてやっと貯めたものを、自由に自分の思うがままに生きた者に分け与える、ということはなかなかできない。

一方、キリギリスは将来のために備えることなく、死んでしまうけど、夏は自分の思うがままに生きたのだ。
アリ的生き方をしても、100パーセント安全安心というわけではない。将来のためにと貯めたものがなくなることもあるのだ。結局、キリギリスと同じ運命をたどることになるかもしれない。


まあ、全く将来を考えない生き方はできないが、将来のために今を犠牲にする、我慢する生き方はあまりしないようにしたい、と「ゼロ」を読んで思った。

そういえば、学校の勉強も大好きならばいいが、もし辛くて我慢して無理してやっているのだとしたら・・・今を犠牲にしているということになる。
学校の勉強は、将来、いい大学に入るため、であり、それは将来、いい会社(安定した職、高給職)に入るためであり、将来、(経済的に)豊かな老後を過ごすためだったとしたら・・・
いや、たしかに将来、経済的に豊かな老後を過ごせるか分からないよなあ。その前に死んでしまうかもしれないし。年金も社会保障もどうなるか分からないし。そもそもいい会社に入っても、その会社はつぶれるかもしれない。

今やりたいことを、めいっぱいやる。もち生活が成り立たないほど、はまってしまうのは問題だけど、かろうじて生活が成り立つのであれば、自分の思うがままに生きたほうがいいかもしれない。

と「イソップ童話」から、ひょっとして「キリギリスのほうが幸せかも」と思ってしまった。

ならば、我慢して生きてきた苦労したアリに、思う存分楽しく幸せに生きたキリギリスを救う道理などないよあ、とも。


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善を強制してはいけない [人生・生き方・生活・人間関係]

イソップ童話の「アリとキリギリス」について書かれた古賀史健氏の『ノート』を読んで、違和感もった。
餓死してしまうキリギリスよりも、冷酷に捉えられてしまうアリに同情してしまった。

まずは、古賀史健氏の『ノート』より転載。

・・・・・・・・・・

春から夏のあたたかい季節、バイオリンを弾きながら歌をうたって遊んで暮らすキリギリス。計画性のかけらもないまま放蕩のかぎりをつくす、駄目な若者の象徴です。

一方のアリたちは、冬にそなえてせっせと食べものやら資材を集め、備蓄に励みます。まじめで堅実な働き者、といったところでしょう。

「いやいや精が出るねえ。こんなに気持ちのいい青空なんだ。きみたちも少しは歌ったらどうだい?」。キリギリスはからからと笑います。

そして寒い冬がやってきたとき。煌々としたあかりのともる自宅で暖炉を囲み、一家団らんするアリの前に、一匹のキリギリスが現れます。あんなにおしゃれだった服もぼろぼろになり、見違えるほどに痩せ細ったキリギリス。

冬になって食べものがとれなくなった彼は、アリに懇願するわけです。「おなかがすいて死にそうだ。なんでもいいから、食べものをわけてくれないか?」。

アリの返事は、こうでした。
「夏は歌っていたんだから、冬は踊ってみたらどうだい?」

自分の冗談にへへっと笑い、ドアを閉めるアリ。寒空のなか凍死するキリギリス。THE END。


犬にも劣るアリ畜生、とはこのことでしょう。
この童話からぼくが学んだ教訓といえば「計画性は大事だよね」でも「やっぱりコツコツ働かなきゃね」でもなく、ただただ「真面目であることと善人であることは、まったく別の資質だ」のひと言につきるような気がします。

いや、これって笑い話としてクローズするものでもなくって、真面目なひとって、いつのまにか自分に「善」をくっつけるじゃないですか。
あるいはまわりも、真面目なひとを見たら無意識のうちに「善」とセットで考えてしまう。

コツコツと真面目であることは、立派なことではあるけれど、決して「善」とは限らない。きょうみたいに肌寒い日になると思い出す、イソップの教えです。


・・・・・・・・・・
転載終わり。

これを読んだハヤシの個人的感想

まず古賀氏は「真面目=善とは限らない」ということを言いたかったのだろう。それには同意。

ただ・・・アリは「犬にも劣る畜生」なのか?
もちろん「善」でもないが。

キリギリスを助けないアリを犬畜生呼ばわりすることについて、違和感もった。
と言う私も「相当嫌なヤツ」「冷たいヤツ」だが。

基本的に、アリに、キリギリスを助ける義理はない。
だって、遊ばずに真面目にコツコツ働いてきたその対価を、働きもせず遊んできたキリギリスに分けろ、というのは、アリにとってみれば「何で自分が?」でだろう。ごく普通の反応だ。

アリは、冬も安心して暮らせるように、遊びもせず、コツコツと細く長く、そういう生き方をしたまで。安定を選んだだけのこと。
キリギリスは、自分の思うように、人生?を謳歌し、太く短く生きたまで。安定よりも自由気ままを選んだだけのこと。

それぞれ違う生き方をしただけ。

アリの働いてきた分け前を、働かなかったキリギリスに分けろ、というのは、アリにとっては不公平なことだろう、と。
(キリギリスが体が悪くて働けなかった、弱者、というわけではないのだ。)

そう、アリは夏の間も遊ぶことなく、コツコツと働かなくてはならない=あまり余裕がない暮らし、だったのだ。
余裕のない働き者が、やっと貯めたものを、関係のない他者に分け与えることなど、なかなかできない。

アリだって、遊びながら余裕で貯めたものであれば、分け与えたかもしれない。

アリとキリギリスは、価値観が違う、違う種族、と考えていい。
アリが助けたところで、キリギリスが『アリを見習って、冬を越すために働こう』と反省することはない気がする。夏になれば、また遊び暮らし、冬になったら「アリに助けてもらえばいいや」ということになる。

キリギリスに自由があったように、アリにも自由がある。助けない自由もあるのだ。
自由と責任はセットということで、アリは、キリギリスに「自己責任を求めた」だけのこと。

『自己責任』という言葉、ある人たちは「冷たい」と言い、助けるのが当たり前だ、というけれど。
一方的に『善人であること』を押し付けるのも、なんだかなあ。

もちろん、キリギリスの生き方も否定しているわけではなく、それぞれの生き方を認めればいいということだ。ただし認める=助ける、ではない。

助けることを強要すれば、真面目に生きる人がバカを見る=損をする、になってしまい、真面目なアリへの差別にもつながる。

助ける助けないはアリの自由。それを非難する権利は誰にもない。

ま、真面目を善と捉えがちな世の中に対して、「真面目=善じゃないよ」ということを、古賀史健氏は言いたかったのだろうけれど、「アリ=冷たい=犬畜生=悪」という図式が見えてしまったので、ちょっと違和感もったということで。

それに、「真面目=善」どころか「真面目=つまらない」と捉え、見下していた時代もあったのだ。(少なくとも私はそう感じていた)

バブル時代、こういう考え、価値観を持つ人は多かった気がする。「真面目」であることをバカにする風潮があった。「真面目=つまらないヤツ」ということで、「真面目」と言う言葉はマイナスイメージに捉われていた。

バブル時代はキリギリスがもてはやされ、アリは見下されていた。

真面目と言われることは、褒め言葉ではなく、巧妙な「けなし言葉」だったのだ。
真面目と言われたくなかった人、劣等感持っていた人、けっこう多かったのでは、と推察する。(少なくとも私は「真面目」と言われたくなかった)

ま、真面目な人もそうでない人も、自分がコツコツとやっと貯めてきた分け前を、助ける義理もない遊び人にやりたくないと思うのが、普通の人間。

「いや、私は助ける、それが人間だ」と言う心優しい人もいるかもしれないが、他者にそれを押し付けた時点で(=善をおこなわない他者を批判した時点で)、それは「優しい人」ではなく「正義をふりまわす傲慢な人」になってしまうかも。

「善であることを押し付ける左派」にも不信感を持っている私としては、こういった「善を押し付け、それを拒否すると悪に仕立て上げること」にどうしても違和感を持ってしまう。
そう今まで、左派がやってきたことが、まさに「善であることを押し付け、拒否すると悪に仕立てること」だったから。

そういった善なる人に、悪に仕立て上げられる「遊ぶことなく働きづめ=余裕のない真面目なアリ」が、ちょっとかわいそうになったのだ。
でも、そう疑問を持つ私もきっと「犬にも劣る畜生」「冷血人間」「悪」なのかもしれないが。

と、毒を吐いてしまうのも、私もバブル時代、下に見られていた『真面目な人』だったからだろう^^;

・・・・・・・

さて、なぜこのような古賀氏の記事を見つけたか、というと「コルク」の佐渡島庸平氏のツイートにのっていたから、なのだけど、もうひとつ・・・ホリエモン(堀江貴文)の著書「ゼロ」に、構成としてこの古賀史健氏の名前がのっていて、興味持ったからチェックしてみた、という次第。
ちなみに、佐渡島さんも協力として、「ゼロ」に名前がのっている。

で、「ゼロ」については・・・おもしろく読み、頷かされるところ、刺激を受けたところが多々あり、ホリエモンの意外な一面を見た気がした。が、あまりにも今までのホリエモンのイメージと違い・・・ひょっとして、ゴーストライターが書いたのかな? とも思ってしまった。で、古賀氏はライターでもあるので、古賀氏が関わったかも、と邪推してしまったのだ^^;


↓その「ゼロ」を読んで、なるほどと思ったところ。
【貯金がないと不安だと思う人は、自信のない人】
【自信がないから将来が不安になり、貯金で穴埋めしようとする】

私も貯金派だ^^;
で、投資をする才覚もないし、億劫だから、リスクが一番低そうな貯金にしておく。
ホリエモンが言うように、貯金は、何も考えないで済む。お金を銀行に預けておくだけでいいのだから、ラクだ。

そして、ホリエモンの言う【貯金するより、自分に投資しよう】・・・たしかにそのほうが、人生が充実し、楽しくワクワク暮らせるだろう。

けど、私の場合、自分をあまり信じていないので、自分に投資しようなどと思わない^^;
自分に投資しても、リターンが得られないと思うので、貯金する。

貯金はリターンは少ないが、目減りすることは、日本がつぶれない限りない。ま、円の価値が下がり、国際的に目減りすることはあるだろうけれど、私が生きている間は、何とか円の価値を保ってほしい、という他力本願で行っている^^;

いやいや、自分に投資して何も得られない可能性と、日本の円が暴落し価値がなくなる可能性、どっちが高いかと言えば、自分に投資してリターンが得られない可能性の方が圧倒的に高いだろう。

ま、それだけ自信がない=自分を信用していない、ということになるのだけど、こればかりは「心根の問題」なので仕方ない。私は基本、「生きていてごめんなさい」的な自分が認められないマイナス思考の人間なのだ。

生きていてゴメン、と思うものの、自殺することもできず、中途半端な人間。けど、割とそういう人、多いのでは、と思う。

とは言っても、死ぬのを待つだけでは退屈なので、自分に投資ではなく、自分が楽しく過ごせることには多少のお金をかける。
たとえば、このネットをするのに必要な費用、イラストを描くのに必要な費用(でも紙と色鉛筆とペン、消しゴムさえあればいいので、大した費用ではない)、それくらいかな。
インドア派なので、趣味にはほとんどお金はかからない。ま、他者から見たら、かなり「つまらない人間」だろうな^^;

上記に「真面目な人=つまらない人」と捉える人が多いと書いたが、「つまらない人=自信のない人」かもしれない

ああ、自信ないから、余裕がない、よって善人になれないのかも^^;

いや、善人を否定しているわけではなく、善人は偉いと思う。ただ、自分には真似できない、そういうことだ。

けど「ゼロ」はおもしろかった。おすすめ。私のような者でも元気を得られる。


私は善人ではないが、人様に迷惑をかけずに、ということは考える。

で、その上で、楽しく快適に生きられたら、と。せめて貯金し、それが実現できるよう、んで、できればラクに、ポックリと、この世とおさらばでいたらいいなと^^;(ただポックリは難しいのだろう。長患いすれば金がかかる…そのための貯金だ)


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少女妊娠出産感動物語=無責任エンタメ=左傾化エンタメ? [本・テレビ番組・ドラマ・映画・マンガ・アニメ]

前回、少女(小中学生)が妊娠し、結局、苦しんで出産して、皆からも祝福されて、ハッピーエンド・・・テーマは命♪ でも、その後の子育てには触れない・・・というドラマや漫画の話に触れたけど・・・

ああ、よく考えてみたら、これって「無責任な左派的きれいごと物語」だなと思った。

せっかく宿った命、中絶は殺人、命は大切に、だから産もう・・・もちろん、これは善であり、正義である。

が、その後の我慢を強いられる子育てについては触れない。
触れたとしても、『周囲の協力もあって、上手くいってます。少女ママも少年パパも仲良く子ども育ててます』『子ども、元気に成長しました』と、サラッと描く程度。

『非現実的ご都合主義な無責任エンタメ』ということで、私はああいった物語は感動もしないし、『命を大切に』というメッセージにも、「じゃあ、その後の子育てを描こうよ。そっちが大事じゃん」と思ってしまう。

そう・・・『非現実的』『無責任』『きれいごと』といえば左派だよなあ、と今にして思ってしまった^^;

現実には、少女ママも少年パパも我慢できるはずがなく、子育ての責任を負えるはずもなく、育児放棄する可能性が高い。とくに少年パパ。

小中学生はもちろん、高校生でも、まあ、ほとんどは我慢できないと思う。

まだまだ遊びたい盛り。
大人のパパでさえ、妻と子を捨て、責任を果たさない者もいる。
だから現実的には、育てる環境になく、自信がなければ中絶するだろう。

少女ママに産ませて、命大切メッセを込めるのであれば・・・産んでみたものの、でも育てられず、少年パパは家族を捨ててしまい、結局、子どもは養護施設へ・・・
それでも産んだことは正しい、「命、大切メッセージ」を込めました、養護施設に行ったからって不幸とは限らない、というところまで描いてほしいよな・・・

少女ママ少年パパが仲良く子育て、子どもは無事に成長・・・は非現実的。
大人のママやパパでさえ「産後クライシス」という言葉があるくらい難しいのに。

けれど・・・少女が、子は産んだものの、親の責任放棄・・・これは「正義」で「善」なのだろうか。これでも「命大切メッセージ」となるのか?

つまり、絶対正義、絶対善、絶対平和・・・ありえないということだ。

もちろん『命は大切だ、その後、育てることができず、その子どもが養護施設に行ったとしてもそれはそれでいい。中絶して命を奪うよりはいい、まず産むことこそ正義」という意見の人もいるかもしれないけど。

そういえば「パラレル・プライオリティ日本編」 http://ncode.syosetu.com/n2006cl/ も静也と理沙は児童養護施設育ちという設定になっているっけ・・・
(保護者を亡くしたため、施設に入った。虐待や育児放棄されたからではない)

親がいなくても子は育つ、という言葉はあるものの、難しい。
もち、不幸になるとは限らないし、物語上では現在、静也と理沙は幸せである。

だからといって、育児放棄は大した問題じゃない、育てられないなら養護施設へ、親がなくても子は育つ、とも簡単には言えないし。

が、養護施設で育つ=不幸、と決めつけるのもよくない。

『命大切』という単純なものではなく、こういったことこそ追求してほしいよなあ。

というわけで『少女が出産、感動、ハッピーエンド』という物語にうすっぺらさを感じてしまうのだ。
つまりうすっぺらい、きれいごと、非現実的・・・って左派的思考に似ているな、と^^;

少女の出産話を描くとしたら・・・結局、育てることができず、子どもは養護施設へ、けど、その子どもは不幸になるとは限らない、そういう描き方がいいのかな。

もち、子どもを産んだ少女のお母さん(おばあちゃん)が、少女の産んだ子供を育て、お父さん(おじいちゃん)が経済的面倒を見て、家族全員で育てる、という話もありである。少女は結局、少年パパではなく、自分の両親に頼り、子育ての責任はほとんど自分の両親にとってもらう、ということになるが。
が、それも結局、元気な両親がいて、出産に理解を示した場合のみ可能な話である。

そして「少女、出産頑張った、偉いね」で終わらず、「責任とれずカッコ悪いね」ということになるが。ま、そもそも人間、かっこよく生きられるとは限らない。カッコ悪くていいのだ。



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人間そんなに都合よく生きられない [人生・生き方・生活・人間関係]

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昨日、撮った大寒桜です。
さてさて今日は何だか朝から疲れてしまい、午前中いっぱい休んでしまった。気兼ねなく休める環境に、ホッとする。この頃、ますます体力落ち。

けど、小さいお子さんがいる家庭では、そんなわけにいかないだろう。とくに赤ちゃんの時は24時間365日休みなし。睡眠時間も2時間とか、ほとんどとれない。(ま、赤ちゃんによって違うのだろうけど)
もちろん、赤ちゃんの面倒をみるママはちょっと疲れた程度で休めない。

ま、本当の病気になってしまえば、子どもにウイルスや菌を移すわけにもいかないし、周囲もサポートしてくれるだろうけど(周囲のサポートが得られない時は、本当にキツイよな)

お母さんも疲れているけど、お父さんもお仕事で疲れている。けど子どもは休ませてくれない。

子育ては若い元気な時でないと相当キツイ、と言われるゆえんだ。
なので「やっぱり20代で」とも囁かれる。

パパも育児をママと折半、となると、体力のある若いうちに、となるのだろうな。
もち、家事育児は妻任せの男性も未だ多いだろうけれど。

仕事と育児と両立できるのか・・・これからは女性だけでなく、男性にも問われ始める?
だとすると、結婚出産に慎重になる若者が増えて当然のような気もする。
子育ては経済的にも大変だが、時間的に自由がほぼなくなる。

もちろん、「子育てにエネルギーかけたい、ほかのことはどうでもいい」「子育てがプライオリティ1番」「子育てこそわが人生」と心の底から思える人は、子どものことに自分の全ての時間=エネルギーをかけることは、苦ではないだろうけれど。

そんなわけで「産後クライシス」という言葉に、頷いてしまう。
中には耐えられない人も出てくるだろうな、と。
「子ども」によっても「大変さ」は違うだろうし。
アレルギーを持っていたり、病気がちだったり、発達障害など、様々な問題を抱えることもあるだろう。

そういえば、昔・・・漫画やドラマでは、中高生が妊娠し、悩むが、結局産むことにし、「出産するまで」が描かれる作品が話題になったことがあったけど、それから後のの育児=『本当に大変なこと』が描かれないよなあ。

古くは「金八先生」、これも古くなったが「14歳の母」、漫画では、さそうあきらの「コドモのコドモ」(こちらは小5で産む)
・・・いや、まあ、みんな古い作品だな。

ハッピーエンドで終わるけど、「これからが大変なのに、小学生や中学生のママとパパが責任もって育児できるわけないよなあ」と、覚めた目で見てしまう。

これら作品が生まれた昔、世間様は初エッチの低年齢化を憂えていた気がしたけど、
今は、「若者が恋愛しない、セックスしない」とさわぎ、初エッチ高年齢化を心配しているみたい。

いや、若者にはいろんな人がいて、早い人は早いだろうし、皆が皆、セックスが好き、本当に好きな人がいるならともかく、セックスだけ早くやりたいわけでもないだろう。恋愛することを優先順位の下位におく人もいるだろう。
妊娠も責任持てない、避妊は100パーセントではない、ということで性交渉に消極的な人もある程度いるのは、健全なことだと思うけど。

絶食化と問題にしてみたり、「中年童貞」という言葉を作り、嘲りの色を忍ばせながら問題人物のように扱ったり・・・
世間は、「多様化が大事」と言う割には、人の生き方をひとつの型にはめるのが大好きで、そこから外れる人間を「社会問題化」し、バカにし、嘲り、見下す空気をつくるのが得意のよう。

そういう空気を作り、世間が考える「困る生き方をする人間」に圧力をかけ、世間にとって困る生き方をする人間を減らしていこうということか。
だとしたら、巧妙に人権侵害、仕掛けているな。

世間が良しと思う生き方(こう生きたほうがいいと考えられる生き方)
・・・高校から恋愛をし、大学生で初エッチをし、恋愛経験を積み、結婚し、子どもをもつこと(なお、女性は仕事を続けること)・・・なのかな?

いやあ、何だか大変そうだ・・・

現実問題、体力があり伸びしろのある若い時、子育てにエネルギーを注ぐか、または自分の仕事、自分の才能・能力を伸ばすことにエネルギーを注ぐか、どちらかひとつを選ぶことになりそう。

もち両立しているすごい人もいるけれど、人並み以上の体力と運の良さ(・・・手がかからないですむ子どもを持ち、サポート得られる環境にある、仕事に自由がきくなどなど)がないと無理な気もする。

パパも、ママと同じくらい育児に関われ、となると、子どもをもつことを躊躇する男性も出てくるかもしれない。けど子どもを持つと言うことはそういう責任も発生するということなのかも。
昔はお金を家庭に入れるだけで済んだけど。

それでも、お金を家庭に入れ、とりあえず家に帰ってきて、ママ程じゃないけど子どもに関わるパパも偉い。
それすらしなかったスザンヌさんの元夫に較べたら。

まあ、育児にそれだけエネルギーをかけなきゃいけないとなると、子どもに過剰な期待をしてしまう親もでてくるのも無理はない気もする。
それはそれで問題だと、社会は言うけれど。

バランスよく、両立してこなす、というのは、なんだかものすごい才能を必要とするようにも思える。

ただ、子どもを持ってしまうと、「辛い」「不幸だ」と言えなくなり、それを言ったら「親として、人間としていかがなものか」という社会的圧力がある気がする。
子どもがいるのだから、幸せに決まっている、という圧力が。
そう思えない親は、親の資格はない、人間として最低、という圧力が。

対して、独身者はそういった縛りがないため、「辛い」「不幸だ」と正直に表に出して言えるのかもしれない。

まあ、何にしろ、子育ての責任は重い。

そういえば、林真理子さんが週刊文春で、川崎の18歳に殺された被害者13歳中学生の母親を批判していたっけ。どうやら母親は恋人がいたらしく、子どものことは二の次になっていたよう。

そして5人も子どもがいたらしいけど、元旦那(5人の子どものパパ)は養育費など払っていたのか? 

被害者側に鞭打つようなことを、と林真理子さんを批判する人もいるだろうけど・・・恋愛よりも子供を優先しろという林真理子の言い分ももっともなことだと思う。

子どものことを最優先できない人、仕事や趣味、恋愛を優先してしまう人は、やっぱ子を持ってはいけないとも思う。
なので少子化もやむを得ないとも。

子どものことを最優先できないのに、子どもを持つことのほうが、ずっと問題かもしれない。
世間は「若者の初エッチ年齢や恋愛やセックスに慎重なこと」を気にするより、そっちを気にしてほしいと思った。

とりあえず、離婚し、子どもの養育費を払わないパパから、養育費を払わせるような仕組みを考えた方がいのでは、と。(難しいだろうけど、罰則を設ければ、支払う元パパも増えるのでは、と)

社会的圧力は、社会が良しとする生き方をしない者(=恋愛しない、セックスしない、結婚しない人)に向けるのではなく、子どもへの責任を果たさない者に向けてほしい、と思ったのであった。

でも、あれだけ「恋愛しろ」と恋愛することがいかに人生において大事かを説きながら、子供をもったら「恋愛よりも子供を優先しろ」というのも、都合イイよな、とも思う。
人間、そんなに都合よく生きられない。

『恋愛すること』がそれだけ大事なことだとしたら、子どものことより恋愛、というパパやママもいてもおかしくない気もする。



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