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【ネタバレ注意】椰月美智子の「恋愛小説」(オタクやブスを悪しざまに描写)にうすら寒さを感じた [本・テレビ番組・ドラマ・映画・マンガ・アニメ]

椰月美智子の小説―『恋愛小説』を読んだ。
何というか、わりとえげつなかったんで、話題にする^^

ただ、ほかの人の感想を見てみると、私が気になったところは注目していなかったんで、たぶん、私の感覚がおかしい、被害妄想なのだろう。
ということで「私=ハヤシさんの感覚がおかしいかもしれない」ということを前置きしておく。

私はオタク寄りだから、どうしても「オタクの味方」をするし、「オタク」の肩を持つ。
なので恋愛至上主義者の女性も苦手。彼女らもオタクが嫌いで、理解不能の存在だろう。ま、お互い様である。

世間では・・・オタクはだいぶ、認められてきたとはいえ、それでもバブル期の「オタクは気持ち悪い、人間として問題がある、犯罪者予備軍」という空気も生きている。

あの反差別を訴える「しばき隊」や在日の一部も、「オタク死ね」「オタクは嫌い」と言い、民主党議員の有田芳生氏も、「オタク死ね」というイラストを自らのツイッターにRTしてアップしたくらいだ。

それくらい一部の一般人に「オタク」は嫌われ、平気で【オタク死ね】と言える雰囲気が、今もなお残っているのだ。

【在日死ね】と言ったら、そりゃあもう、言った方は「レイシスト」と周囲から攻撃されるけど、オタクへの悪口は許されているのである。

おっと、話がずれた。

要するに、オタクはまだまだ世間では嫌われているし・・・もちろん、バブル期の恋愛至上主義者たちからも嫌われているだろう。

だから、『恋愛小説』を書いた椰月さんも、ああいった描写をするのだろうか、と、とても嫌な気分を味わった。
そのことについて語る。

以下、椰月美智子氏の『恋愛小説』についての感想・ネタバレです。

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思い出のマーニー [本・テレビ番組・ドラマ・映画・マンガ・アニメ]

録画した思い出のマーニーをやっと見た^^;
「アリエッティ」の監督さんだったのか。「アリエッティ」よりは面白かった。うん、ポニョとかハウルとか風たちぬよりも、ずっといいのでは、と。

ただ引っかかった点というか・・・主人公に嫌な感じを持った点。

いくら「おせっかい」だからって、太っている女の子に「ふとっちょ豚」と暴言を吐き、その後、「自分が嫌い、自分は醜い」と周囲と較べて美人な主人公は言う・・・。

しかも、その太った子、そんなに悪いことしてないし。
そのうえ、容姿を悪く言われたにも関わらず、一度は許そうとした。しかし、主人公はそれを蹴った。

ただ、その前に、暴言を吐いた主人公を許そうとしたのがありえない。
とくに日本人の女の子は「太っている」と言われるんを一番毛嫌いする。
なのに、あの年頃の女の子が、あんな大人な振る舞いができるだろうか?

あの年頃の女の子に対して絶対に許せない言葉だ。
そしてかなり傷つく言葉。そのダメージははかりしれない。
主人公は言葉の暴力を振るったのである。でも、おそらくその自覚はない。

主人公は自分のことを醜いというが・・・いやいや、周囲のお友達に較べたら「美人」でしょ。一番美人じゃないの??? ・・・【絵】としてはそう描かれている。
そういうところが、「なんか嫌な感じ」がした^^

たぶん、監督、脚本を書いたのが男性だから、その辺の描写はあっけらかんとしているのだろう。
でも、デブと言われたに等しい思春期まっただ中の少女が、あれほどあっけらかんとしているだろうか。大人の振る舞いができるだろうか。
容姿を悪く言われた思春期の少女が、わだかまりを持たないなんてありえない。

本来、冗談では済まないだろう、修復不可能なくらいに思春期の女の子を酷く傷つけた言葉を吐いた主人公・・・だが、そうしたくないばかりに、太った少女をあっけらかんと描いたのだろう。
そこが嘘っぽい。

太った女の子など出さなきゃいいのに。あるいはその容姿を悪く言う言葉を主人公に吐かせなきゃいいのに、と。

あるいは主人公を、「千と千尋」の千尋のような容姿にすれば、まだ「自分は醜い」という言葉に白々しさを感じなかっただろう・・・

と、ここまで書いて、ふと思う。
物語のリアリティって・・・人間の描き方にかかっているのかもな、と。



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「サマーウォーズ」と「おおかみこどもの雪と雨」への違和感>家族について [本・テレビ番組・ドラマ・映画・マンガ・アニメ]

「サマーウォーズ」をつくった細田守はずるい
http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20150703/E1435852914189.htmlより一部、編集転載。

この映画を見るたびに苛立つシーンがある。
スーパーコンピューターを冷却していた氷を、おばあちゃんを冷やしたいと警官の男が移動させたことで、作戦が台無しになる場面だ。
人情がやらかした行動だ。だが「外側」の人間として見ている視聴者からしたら、全く笑えない。
なぜ、一言相談がないのか。
子どもたちが操作を邪魔したことで、キングカズマがラブマシーンにKOされたシーンも、我慢できない。

陣内家の家風は、男は戦え、女は家を守れ、という思想がとても強い。
性差による仕事分担がものすごくはっきりしている。
特に、嫁入りした女性たちは、本家に気を使いながら、でかい屋敷の家事全部背負わないといけない。

船の持ち込みや、スーパーコンピューターのシーン。絵的には、これから何が起こるのかとワクワクする場面だ。
しかし家を守る女達がリアルに描かれちゃった分、見ていて気が気ではない。
畳がいくつだめになったことか。フォークリフトをぶつけた渡り廊下の傷に背筋が凍る。
嫁さんたちの胃は、クライシスだ。

一方、陣内家に密着している側は大変だ。
嫁入りしたショートカットの奥さんは、一切台所から出してもらえていない。

「次男坊って本当に役に立たないわね」「なんでこんな時によそんちの心配までしなきゃなんないわけ?」
独特のルールが流れる、殻に閉ざされた「陣内家」という小さな世界。
突然やってきた健二にオヤジが「ヤったか」と聞いてくる。
人間関係が、濃すぎるのだ。

コミュニケーション過多によるストレスは、『サマーウォーズ』の原点になっている『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』でも描かれている。
電子世界のピンチだというのに、島根の田舎のばあちゃん連中が焦りをわかってくれない。好意がじゃまになってしまうシーンが、幾度も入る。
深すぎる人間関係の鬱陶しさが、戦う子どもたちをいらだたせる。

『サマーウォーズ』で、細田守はあえてこのような「濃すぎる関係」の面倒臭さを全部隠さなかった。
息の詰まりそうな人間関係の濃度をひっくるめて、「家族」として表現した。
「美味しいものを食べて手を取り合えばなんとかなる」という「理想=おばあちゃんの思想」で、まとめあげる。

細田守はインタビューの中で、家族について「面倒くさい」「契約にしばられる」と考えていたことを明かしている。
しかし結婚した時に、「それまで会った事もない人と次の瞬間には家族になる、ということが、とても不思議で面白かった」と述べている。
彼の考える、「コミュニケーションの理想形」と、現実と照らしあわせた時に咬み合わないいびつさは、『おおかみこどもの雨と雪』でさらに深化していく。

・・・・・・・・・
転載終わり。

記事の中では、大家族の嫁さんのツイート集も紹介されていた。
http://togetter.com/li/342972

現実はやっぱり大家族は大変。
うまく、まわしていくには、誰かが『犠牲』になるのかも。昔であれば「お嫁さん」だ。そして、おそらく今も・・・

大家族はたぶん・・・精神的にかなりキツイ、厳しいところもある。
賑やかで楽しいところもあるのだろうけど、イライラ、ストレスも相当たまりそう・・・。

そして、一番、上記で紹介した記事の中の「印象に残ったところ」・・・
以下転載。
・・・・・・・・・

笑顔の葬式の向こう側で、「愛情」の名を持つラブマシーンだけは、誰にも救われなかった。
細田守は自分の思う「理想像」を美しく描ける作家だ。
そして、理想の輪に入れないヤツも、必ずいるのだ。

・・・・・・・・・
転載終わり。

理想の輪の中に入れない人、けっこういると思う。私もその一人。
だけど・・・理想の輪の中に入れる人・・・おそろしく自由が制限されるだろう大家族でやっていける人って、どのくらいいるんだろうか?

ほんとうに大家族が皆が憧れとする「良いもの」であれば、これほど核家族化、そして少子化は進まなかっただろう。プラス面、マイナス面がそれぞれあるだろうが、たぶん「マイナス面」が大きいから、少なくなったのだろう。

ダンナさんだって、お嫁さんの家族、親せきとのつきあいに疲れるだろう。
けど、お嫁さんはもっとだろう。
大家族はストレスが相当にかかり、そこに幸福感はあまり見いだせない気がする。

大家族になり、人間の数が増えれば、それだけ問題が起きる数も多くなる
夫婦2人でさえ、一緒に仲良く生活していくのが難しい場合もあるのに、そこに舅や姑、小姑や親せき一同が加わったら、あちこちで軋轢が生まれるだろうな。

集団になれば、いじめ、も起きる。
これが村になれば、村八分・・・集団は怖い。

まずは夫婦関係。この関係がうまく築けてから、次のステップ。「子ども」だろう。
けど、産後クライシスという言葉がある通り、「子ども」ができると、ガラッと夫婦関係が変わる場合もあり・・・
そして、イクメンという言葉が出てきた今でも、子どもの責任は、主に母親に重くのしかかってくる。

なので、前のブログ記事で話題にしたが・・・「女性の半数が子どもを欲しがらないアンケート結果」が出てしまったのだろう。
いちがいに「女性のわがまま」とは片づけられない気もする。

そこに舅姑、親せきがのしかかれば・・・助けてもらえることもあるかもしれないが、かなり人間関係が大変そうだ。よほど人間関係を結ぶのに長けた人でなければ、ストレスだらけの生活になりそう・・・

「サマーウォーズ」は、大家族のストレスを知っている人から見たら、あまり「はまれない物語」だったようだ。

さて、次の細田監督の作品「おおかみこどもの雨と雪」について。
これは、私も最初からあまり楽しめなかった。

主人公の『花』の描かれ方が、あまりに過酷と言うか・・・あれだけ働きに働き、最後は、子供が巣立ち、独りになる。
それが世間でいう「正しい子育て」「(男性が)求める母親像」なのだろうか。

う~ん、母親業ってなんて過酷なんだ、と思ってしまう。

これは賛否両論、分かれると思うし、感じ方は人それぞれだけど、私は『花が幸せそうに見えなかった』のだ。
人間、あそこまで聖人になれるだろうか? なので主人公『花』にも余り共感できず、感情移入もできなかった。よって感動もできなかった。

あれこそ「理想の母親だ」とするなら、ま、花のような「強い生き方」ができる女性はごくわずかだと思う。今の時代ならゼロかもしれない。

よく見かけるイラスト・・・「花があの細い腕で、片手ずつ子どもたち(3、4歳くらいに見える)を抱いている姿」にも違和感もった。両手で一人の子ども(2歳~4歳)をダッコするにも、筋力のない女性にとっては大変だ。

人間あそこまで強くないと、無償の愛を注げる人格者でないと、子どもを持ってはいけないのかもしれないが・・・普通の女性には無理なのでは、と。

というわけで、この記事を紹介。

・・・・・・・・・・・
「おおかみこどもの雨と雪」の花は果して理想の母親なのか
http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20131220/E1387476308916.htmlより一部、編集転載。

この作品が描いているのは、無償の母の愛と、頑張りと、子供の成長だ。
花はとにかく頑張る。ただでさえ子育ては大変なのに、「おおかみこども」という秘密のために誰にも頼れない。子供も思うようには育ってくれない。それでも花は惜しみなく子供たちに愛情をそそぎ、子供のことを一番に考える。花のことを「理想の母親」という人も多い。
だけど、私はちょっと怖くなった。お母さんって、こんなに頑張らなきゃいけないの? 愚痴ったりとか、ヒステリックになっちゃいけないの? こんなに無条件に子供のことを愛せるの?

特に仲の良い友達もいない。バイト先のクリーニング店の人たちはよくしてくれるが、花はどこか心を許していないような印象を受ける。

花が自然にふるまえるのは、おおかみおとこに対してだけ。自分より深い孤独を背負ったおおかみおとこに、花は夢中になる。
「母」になる前の花は、とても寂しい人だ。

序盤に描かれる学校のシーンで、花はいつも一人きりだ。
花が子供に限りない愛を注げるのは、寂しい人だったから。一度は喪った家族。また手に入れたのに、夫は死んでしまった。でも、まだ子供がいる。今度こそ家族を喪いたくない。絶対に守ってみせる……。

盲目的なふるまいは、母親のロールモデルがないことも大きい。花の周囲には、父親のロールモデルはいても、「母親としてどうふるまうべきか」を示してくれる人がいない。花が参考にするのは本。育児の本を片っ端から読み、熱心にメモする。花は母としてのふるまいを「知って」はおらず、「勉強」している。

監督は公式インタビューでこう答えている。
「自分の身近で子供が出来た夫婦が増えてきたときに、親になった彼ら、特に母親がやたらカッコよく、輝いて見えて、子育ての話を映画に出来ないかなと思ったんです。自分が体験してみたい憧れを映画にしたという感じです」
「それまで『母』というと、ちょっと縁遠い印象があったのが、自分の知り合いということもあって、自分たちの目線の中で、子供を育てるという責任を背負う姿が素敵に見えたんだと思います」

不思議な感じがする。どこか他人行儀なのだ。結婚したら自分も親戚の一員になるし、子供だってできて妻が「母」になるかもしれない。でも、細田監督の視線は外部からの「羨ましい」「憧れ」に留まっている。その中に加わりたい、加わろうという目線ではない。

細田監督は、親戚の絆も、母子の愛情も、実感として持っているわけではない。周りで出会い、「そういうものなのか」と学び、作品にしている。その姿は、がむしゃらに子供二人を愛する花と似ている。

『時をかける少女』も、『サマーウォーズ』も、『おおかみこども』も、コミュニケーションや絆を描いているはずなのに、どこか歪な印象が残る。それは、細田監督が憧れを抱き、理想だと思うものが、私にとって完璧すぎるからだ。

・・・・・・・・・・・・
転載終わり。

そこで、ほかの人のこんな感想を目にした。

転載 【『雨』(息子)が山に帰った後、(主人公である母親『花』は)村の人にどんな言い訳をしたんでしょうか】

ああ、たしかに・・・
花は、助けてくれる村人らにも、自分の子どもの本当の姿=秘密を明かしていない。
つまり、本当に村人たちと『信頼関係』を築いていないのだ。

そして、子どもたちが巣立ち、花は村に独り「取り残される」・・・たぶん、ずっと村で暮らすのだろう。
ものすごい孤独だ。あそこまで子どもに尽くし、そして独り取り残されたら、『空の巣症候群』になりそうだ。

花はなんだかずっと「寂しい人」のように思った。家族の縁にうすい人。よって、幸せそうに見えない。

「いや、花は崇高な人生を歩んだのだ。それだけで満足なはずだ」と受け取る人もいたかもしれないが。

主人公の花は、本当に立派で偉い、理想的な母親だ。大変な子育て、家族を食べさせていく重労働を一人でやり、笑顔を絶やさず、決して、子どもに当たったりしない。そして、納得して、子どもを送り出す。子どもに見返りを求めない。そういう生き方に満足をし、喜びを見出せる人格者。聖人のような生き方だ。

けど、じゃあ、花のように生きたいか? となると、答えはNOだ。
おそらくNOと答える女性はたくさんいるだろう。

男性でなければ、ああいう話は描けないだろうな、とも思った。

※「花」は、男性に都合のよい女性像にしか見えなかった。おまけに花の外見はずっと「少女っぽい」・・・あれだけの苦労をしているのに、ずっと若いままだ。畑仕事をすれば紫外線を浴び、シワも増える。人よりもずっと「老ける」のに、そういった描写はされない。

世間は、母親に「フルタイムで働く仕事との両立」も求め出した。病児保育どころか、普通の保育園もまだまだ足りないし、仕事との両立は相当きつそうだ。いつもいつも時間に追われ、精神的にもイライラしてしまうだろう。けど、イライラを子どもにぶつけてはいけない・・・愛情いっぱいに育てなければならないのだ。夫も仕事で忙しい。
でも、「花」のような女性ならできるのだろうな。
けど、ほとんどの女性にはおそらく無理なことだと思う。

なので、あの映画で違和感を持った女性はけっこう多かったりして。
素直に感動したのは男性が多い?
それとも、子育ての大変さを味わっているママさんの多くも感動したのかしら?

ファンタジーなので、そんなの気にならなかった人も多いかもしれないが。

このアニメ映画に違和感をもった女性に、「わがまま、母性がない、人間として冷たい、女としてどうかと思う、女性の権利ばかりふりかざしたがるサヨク」と思う男性がたくさんいるとしたら、やはり、結婚子育ては、お互いにいばらの道になりそうな気がした^^;
少子化が進むのももっともだ。


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出版社側の思惑「絶歌」と「天国からのラブレター」と追記「人種革命~ミス・ユニバースの宮本エリアナ氏の民族浄化思想?」 [本・テレビ番組・ドラマ・映画・マンガ・アニメ]

まず、本題に入る前に、
前日記のミス・ユニバース日本代表の宮本エリアナさんについての追記です。

「革命を起こしたい。100年後、純日本人は少なくなる」の記述について。
原文はこのようになるんだとか。

http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5866.htmlより以下一部転載。

・・・・・・・・
http://news.yahoo.com/black-miss-japan-fights-race-revolution-041830696.html

Black Miss Japan fights for race revolution
黒人のミス日本が人種革命のために戦う!
AFP May 12, 2015 1:52 AM

(一部抜粋)
"I want to start a revolution," Miyamoto added with a laugh. "I can't change things overnight but in 100-200 years there will be very few pure Japanese left, so we have to start changing the way we think."
「私は革命を起こしたい!」宮本エリアナは笑いながら付け加えた。「一夜にして変えることはできないけど、100年か200年後には純粋な日本人なんて殆ど残っていない!だから私たちは、私たちが考える方法で今から変革を開始しなければならない!」

転載終わり。

いや、訳し方で印象、変わってしまうけど・・・
攻撃的だな。これ、ほんとうに民族浄化思想じゃない・・・ちょっと、びっくりした。
穿った見方をすれば「人種革命を開始し、日本人を少なくしよう」とも読み取れてしまう。
そして、宮本さんの「ファックユーポーズ」が、なぜか「しばき隊、在日側カウンター」と重なる。
「差別主義の悪の日本をぶっ壊せ」っていう感じ?(だから、しばき隊も「CRAC」と名前を変更したのだろう)

印象操作、情報戦の時代だな。
で、宮本さんの発言は、日本の記事になるとこうなったという。↓

【「いい意味で革命を起こしたいですね、すぐには変わらないですけど。私の発言で少しでも世間が変わるような人物にはなりたいと思います。血が混ざった子はこれからもっと増えていくから、そういった子たちが暮らしやすいようになっていってほしい。100~200年経つと『純日本人』って本当に少なくなると思うんですよ。今のうちに少しずつ変えていかないといけないのかなって思います」】

原文よりはやわらかい表現になっているが・・・

なんだか気持ち悪い。なにかの思惑が働いているような気がして。
それはやはり日本は差別国家→在日も混血も差別されている→ヘイトが行われている→だからヘイトスピーチ規制法を→巧妙に言論封殺。

・・・・・・・・
本題。

「絶歌」に、あの幻冬舎の見城徹氏が関わっていたと知り、いろいろと勘繰ってしまった。

※ここからはすべて私の憶測です。(客観的事実はなく、主観で述べてます)


つまり元少年Aは、最初、見城氏にコンタクトをとったらしい?(週刊誌ネタ)
見城氏は名物編集者としても有名人。その見城氏にコンタクトをとった少年A。

ここに元少年Aの自己顕示欲が見えた気がする。

これでますます作家の小池一夫氏が指摘した通り、元少年Aの性根は変わっていない、と思った。

サカキバラ事件のことがまた話題になり、元少年Aの実名や写真がネットで出回るかもしれない。彼の身辺が騒がしくなり、特定されてしまうかもしれない。そのリスクを背負ってでも、出版したかった=自分のことを話題にさせたかった・・・のだとしたら・・・

話題にされている間は気持ちいいだろう。
が、やがて沈静化する。
その時、彼は何をするだろうか?

そして、14歳の時に仕出かしたことを反省しても、また強い欲求が出てきたら、止められないのではないだろうか?

彼は治ったのか?

いや、趣味や嗜好、志向ってそう簡単に修正できない気がする。

たとえば、例は悪いが、自分のことを語ろう。

当時、漫画=オタク=気持ち悪い=犯罪者予備軍というような空気の中、私は漫画を描くことをやめられなかった。
親からもやめてくれと頼まれ、友だちからも引かれ気味で、自分も普通になろうと努力してみたものの、漫画を描きたいという欲求に負けてしまったのだ。

つまり、大げさに言うと、周囲の価値観は「漫画を描くこと=良くないこと=悪」である。
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ま、世間様はこんなことを言っていたくらいだ。
「オタク(漫画を描くこと)=気持ち悪い人=犯罪者予備軍=抹殺しろ」と在特会並みのヘイトを平気で行っていた。
とはいえ、プロの漫画家たちは叩かれないのも不思議な話だが。

漫画を描くなんて人様から引かれるようなことをしないで、『普通(お友だちをたくさんつくり、おしゃれをし、結婚につながるような恋愛をし、一般の人の価値観に合わせること)になってくれ』と何度も頼まれたが、世間から悪く思われようとも、コソコソと漫画を描き続けてしまったのだ。
どうしても欲求に勝てなかった。

もちろん漫画を描くことと犯罪を同列に並べるのはおかしいが、欲求とはそういうものだ。

(しかし世間では漫画を描く=オタク趣味は犯罪者予備軍と捉えていたのだから、ま、例に出してみたのだ。戻ってきた元少年Aもまだまだ犯罪者予備軍ということで)

この元少年Aもそれくらいの強い欲求があったからこそ、ああいった事件を起こしたのだろう。
欲求を抑えるのは、なかなか難しい。

歳をとり、エネルギーがなくなって、ようやく欲求を抑えることができる。
だが元少年Aはまだまだ若い。

そして、こう思う。
・・・前のほうの記事で、この「絶歌」と、光市母子殺人事件の被害者遺族の本村洋さんの「天国からのラブレター」を取り上げたけど・・・

光市母子殺人の加害者当時18歳と1か月は、死刑判決となり・・・一方、当時14歳のサカキバラはもう娑婆に出て、本を出版し・・・この違いに愕然とする。

どちらも2名殺害し、殺害後もそれぞれ酷いことをした。
4歳違いで、この差は何だ?

いや、もちろん光市母子殺人事件の加害者の死刑には賛成だ。
つまり、こっちのサカキバラのほうが、あまりに軽すぎないか? ということだ。

それに、よくよく考えてみれば・・・もし、光市母子殺人の加害者元少年が、被害者側を侮蔑するような例の手紙を出していなかったら・・・もし、形だけでも、神妙にお詫びをする姿勢を最初から見せ、反省する態度を演技できていたら・・・少年法の無期懲役を勝ち取り、今頃は娑婆に出ていたかもしれない。

この差は、あまりに不公平ではないか、とも思った。

以前にも同じことを書いたが、「反省している、更生の可能性が高い」などという「あやふやなもの」で、量刑を決めないほうがいいと思った。

反省する演技ができたものが得をする。弁護士の手腕も大きいだろう。

一人殺害したら、基本的に死刑。
被害者側に落ち度があった場合のみ、情状酌量。
これが一番公平ではないか。社会システムはできるだけ公平であるべきだ、と思う。

少年でも殺人を犯したら、厳罰に処してほしい。
人の命を奪うということは、それだけ大きいということを、社会が示すべきだと。
(戦争、自衛権、正当防衛とごっちゃにしないでね)

本村洋さんも言っていたが、人の命は重いからこそ死刑という重い刑罰があるのだ。

さて、ちょっと話をもとに戻す。

「絶歌」を出版するとき、被害者側へその許可を取らなかったことについて、編集者サイドはどう思っているんだろう。
 私は書籍の編集者がどういう仕事をしているのか、どこまでが編集の仕事になるのかは分からないが・・・被害者側への許可、話し合いは、編集者が行っても良かったのでは、とも思った。元少年Aの原稿も、ほとんど手直しなしだったという。
じゃあ、編集はどういった仕事をしたの? と思った。

最初、見城氏が元少年Aの面倒をみようとしたらしいが、なぜか太田出版のほうへ、まわされたという。

そのことについては、こんな記事がある。

http://lite-ra.com/2015/06/post-1197.html
転載。
・・・・・・

「実は『絶歌』は、太田出版ではなく幻冬舎から出版される予定だったのです。

それを幻冬舎の見城社長が途中で出版を降り、太田出版に紹介したということのようです」(出版関係者)

最初の経緯ははっきりしないが、幻冬舎は数年ほど前、少年Aとコンタクトをとり、それ以降、出版に向けてプロジェクトチームを組んで原稿を完成させていた。

実際、今年になり「週刊新潮」がこの動きをキャッチ。「『少年A』の手記出版を企図した『幻冬舎』への風当たり」(1月29日号)として記事にしている。

この際、幻冬舎総務局は「週刊新潮」の取材に対し、「出版の予定はなく、元少年やその関係者に接触したこともありません」と回答。また、見城社長本人も「万万が一、予定があったとして、出したらいけないの?」と否定、「大体、手記を出したところで、売れないって」などと語っている。

しかし、幻冬舎や見城社長がどう否定しようが、実際「元少年A」の手記は幻冬舎でつくり、その後に、見城社長が太田出版にもちこんだもののようだ。この経緯に詳しい出版関係者がこう証言する。

「幻冬舎で「元少年A」の手記出版に向け動いていたのは間違いない。見城社長直々でね。見城は「元少年A」と何度も会い話をしながら原稿の手直しも進めていた。その上、経済的に困窮していた「元少年A」に印税の前払いとして百万単位の金を渡していたらしいです」

しかし、"ある時期"から見城社長は手記出版に難色を示すようになったという。そのひとつの原因として指摘されるのが、あの『殉愛』騒動だ。

昨年11月に幻冬舎から出版された『殉愛』(百田尚樹)は大きな騒動を巻き起こしたことは記憶に新しい。当代きっての売れっこ作家だった百田が故・やしきたかじんの未亡人の証言を元に書かれた『殉愛』だが、未亡人の一方的な主張や嘘が次々発覚し、大きな批判を浴びたのだ。

「見城社長としては『殉愛』はベストセラー間違いなしだと意気込み、様々なメディアに根回しまでしてプロモーションを仕掛けた渾身の一作のつもりだった。しかし発売直後から内容のウソが次々と暴かれて、大バッシングが巻き起こった。この騒動がトラウマとなり、さらに批判に晒されることが必至の元少年A の手記を出すことを尻込みし始めたんじゃないでしょうか。それで、結局は、旧知の太田出版に話を持っていったということでしょう」(週刊誌記者)

しかし、見城社長と言えば「顰蹙はカネを払ってでも買え」というのを座右の銘とする出版業界きっての仕掛人だ。しかも11年には米国人女性殺害事件の市橋達也の手記『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』を平然と出版している。にもかかわらず『殉愛』騒動だけで見城社長が「元少年A」手記という超ド級の話題本を手放すとは思えない。

この点について、見城をよく知る人物がこんな解説をしてくれた。

「見城さんの変化の背景には、安倍首相や官邸との関係があるんじゃないでしょうか」

見城社長は第二次安倍内閣発足以降、安倍首相と急速に近づき、何度も食事するなどブレーン的立場になっていることは周知の事実だ。一方でテレビ朝日の放送番組審議会委員長として権勢を振るい、安倍首相の意向を代弁する形で番組に介入する動きも見せている。

「見城さんはもともと上昇志向が強いんですが、時の最高権力者と昵懇になったとで、さらにそれが強くなっている。最近は、完全にエスタブリッシュメント気取りで、本気でナベツネのような政界フィクサーをめざしている気配もある。『元少年A』の手記についても、当初、乗り気だったのに、その後どんどん安倍首相や官邸との距離を縮めていく中で、心変わりしたんじゃないでしょうか。世間からの逆風が予想できる今回の手記出版は安倍首相にも迷惑をかけると、配慮したのかもしれません」

いやはや、安倍首相のお友だちになった途端、出版人として慎重になり、ベストセラーを手放してしまうほどになってしまったのか。しかも、セコいことに、見城社長はこの出版権をゆずった際に、太田出版からお金を受け取ったともいわれている。

現在の見城社長はもはや出版人などでなく、身も心も安倍首相のお友だち、フィクサーなのかもしれない。

(田部祥太)

・・・・・・・
転載終わり

ただ、このサイトって、「反安倍派」で超リベラルというか、ちょっと偏ったサイトだ。
安倍首相関係の悪口が書かれた記事がたくさんある。なので、ここに「安倍首相」が出てくるのは眉唾物だ。話半分以下に思ったほうがいい。
けれど、この「絶歌」に見城氏が関わったことは、どうやら間違いはなさそう?

まあ、とにかく、編集サイドも、これをどうしても出版したかったのだろう。だって初版10万部。そして増刷をかけるという。だから当然、被害者側に許可などとらない。やったもん勝ちだ。

今、10万部なんてなかなか売れない。
編集者はこういったネタを探しているだろう。誰が傷つこうとかまわないのである。

そこで、ふと思ってしまった。

前の方の記事で、本村洋さんの、生前の弥生さんの手紙をそのまんま掲載した「天国からのラブレター」について、実名で登場する友人たちに許可をとらずに本にし、中には傷ついた友人らがいたのでは、と書いたが・・・

本来、編集者がこのことについて、本村さんに指摘し、手紙の内容を一部削除するか、編集するか、あるいは友人らに許可をとることを指摘するべきではなかったのでは、と思った。

当時、この手紙を本にしようという話になった時、おそらく本村さんは23歳か24歳。
本村さんは、とにかく世に訴えたくて、妻の弥生さんのことしか頭になく、この本が出版されることで、友人に迷惑がかかることまで気がまわらなかったのかもしれない。

また弥生さんの手紙を本にしようと提案したのは、本村さんなのか、企画を立てる編集者側だったのかは知らないが・・・

この『天国からのラブレター』も、私信なので、第三者は読みにくい。そのまんま何も手をくわえず、手紙の文章を載せているのだ。

編集者はどういった仕事をしたのだ?
ほとんど編集らしい仕事をしていないのでは?

ただ、当時、有名だった本村さんの本が出せればそれでいい、と思っただけではないか。
「あの本村さんの弥生さんのラブレター」というのは「いい売り」になっただろう。
必ず、ある程度以上の部数は売れる。

で、あの内容は、ある意味、衝撃的だった。

いや、本村さんだって聖人ではない。弥生さんだって、普通の女性だ。友だちの悪口くらい言うし、下ネタだって、エッチネタだって、話すだろう。

友だちの悪口、下ネタやエッチ話が言えるくらいに、本村さんに気を許していたということだ。

ただ、その友達を実名で出し、編集を加えないまま、友だちを傷つける箇所をそのまんまにして、公に晒すことは問題だったと思う。

友人たちも当時23歳か24歳。
弥生さんの手紙に書かれたことは昔の遠い思い出ではない。

本村さんがこのことに気が付かなくても、編集は気づいていたと思う。

編集部はクレーム経験豊富だから。

それなのに、編集側は本村さんに何のアドバイスもせず、友人たちを困惑させることになるだろう箇所をそのまんまにして、本にした。
そして、おそらく、許可をとるようにアドバイスしなかったのだと思う。
だって、許可はとれないに可能性が高いから。私があの友人の立場なら許可しないもの。
許可を取るのは面倒だ、編集の仕事が増える。最悪、企画はとん挫する。本にならないかもしれない。それだけは避けたかっただろう。

この点でも「絶歌」と「天国からのラブレター」は似ている気がした。

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「絶歌」と「天国からのラブレター」(光市母子殺害事件の本村洋氏の本)の共通点 [本・テレビ番組・ドラマ・映画・マンガ・アニメ]

「絶歌」が話題になっている。

被害者遺族側にしてみれば、事前に相談もなく出版されたことで、怒り、傷つき、出版差し止めを請求しているが、出版社は応じず、これからも増刷して、売っていくようだ。
※初版10万部。桁違いだな。

「日の丸街宣女子」関連記事で、「言論の自由」や「言論弾圧」について述べてきたように、犯罪者であれ出版する権利はあると思う。

ただし・・・このことで「サカキバラ事件」のことが話題になり、「少年A」の実名や写真がネットに出回り、著者である「元少年A」はそれなりの制裁を受けることになるかもしれない。

ここで作家の小池一夫氏の言葉を紹介。

転載。
・・・・・・・
小池一夫 ‏@koikekazuo · 6月13日
元少年Aの性格等が更生されていないなと思うのは、「センセーショナルなことを起こして世間の注目を浴びたい」という性質が改善されていないところだ。手記出版でまた世間の注目を浴びたいという性質は、校門の上に首を乗せたり、犯行声明文を新聞社に何度も送ったりした頃と何ら変わっていない。


「絶歌」は、僕は読まない。内容以前に、被害者家族に本の執筆を伝えていなかったのは、先に伝えると本の出版が出来なくなる可能性が高くなることを知っていたわけで、「悪いと分かっていても自分の欲望を優先させ実行する」という、元少年の性根は変わっていないと判断した。(小池一夫)
・・・・・・・
転載終わり。


私も読まない。アマゾンのレビューを見れば、内容はなんとなく分かる。たぶん、読んだところで、少年Aの心理や感覚は理解できないだろう。

それよりも当時の家庭環境の詳細を知りたいが、そういった個人特定できてしまうものは書かれていないのだろう。

「人を殺してみたい」という気持ち=脳を持つ人は、ごくごく少数だけど存在するのだろう。
そして、それは『治る』のか???
脳の障害(生まれ持った性格、志向、性癖)はそう簡単に治らないと思うのだが・・・

小池氏が危惧しているように、この加害者の性根が変わっていないとしたら、彼はまた殺人を犯すかもしれない。
ならば、未来の犠牲者を出さないための有効な手段は、ただひとつ。この人物の実名、写真公開することだ。そうすれば、周囲の者は警戒できるので、殺されずに済むだろう。

ネットで実名や写真が出まわっているが・・・もし、これが加害者を指すものであれば、未来の犠牲者を出さない有効なものとなる。たとえ「加害者への人権侵害」になるのだとしても。

要するに加害者の人権を優先するか、一般市民の命を守る権利を優先するか、だ。

『人権派』は加害者の人権を優先するのだろう。
一般市民の権利は、結局、不確実なネットの情報に頼るしかない、のかもしれない。

さて、この「絶歌」の話題で、「天国からのラブレター」を思い出した。


光市母子殺害事件の被害者側遺族、本村洋さんの本だが・・・
本村洋さんと、殺された妻の弥生さんの、かなり個人的な手紙の内容が掲載されている。

当初、この本を読んだ時、驚いた。
あまりに個人的な明け透けな内容で、弥生さんの手紙の中には実名のお友だちがたくさん登場するからだ。
おそらく、この本が出たことで、実名で話題になってしまったお友だちの中に傷ついた人もいたのでは、と・・・この件については、本村さんに嫌悪感を抱いた。

そして、妻の弥生さん、こんな形で自分の手紙を公開されて・・・気の毒に思った。
絶対にやめてほしかっただろう。

私が弥生さんの立場なら、絶対にやめてほしい。
その手紙には友だちの悪口や愚痴も書かれているのだ。
これを友だちが知ったら、なんて思うだろうか?

私は、もし個人的悪口を言う場合、絶対に外へ漏らさない「信用できる人」にしか言わない。

この本を見た時、手紙っておそろしいな、と思った。

※そういえば「ショパン物語」を描いている時、ショパンとジョルジュサンドの手紙についても思った。超有名人は手紙も公になってしまう場合があるんだなと^^;

本村さんは同情されるべき被害者側であるが・・・
こういったノン・フィクション系の本を出版することで、傷つき不快な思いをする人は出てくるものなのかもしれない。この場合、本村さんは加害者となる。
弥生さんの手紙に出てくる友人たちに「掲載してもいいか?」の許可を取るべきだったのでは、と思う。

許可をとったのか、とらなかったのか・・・おそらく、許可をとってないと推測する。(文庫本で再登場したとき、友人知人に迷惑をかけた、と書いてある)

※「絶歌」だって、事前に被害者側遺族に許可をとれば良かったのに、あえてそれをしなかった。それは「許可しないことを分かっていた」からだろう。

私が、もし「この友人」だったら、許可しない。それだけ明け透けなことが書かれている。

下ネタの類もあるし・・・

世代が違うからなのか、私なら恥ずかしくて、そんな手紙を公に晒そうとは思わない。
何しろ、友人への愚痴や悪口、マイナス面、友人にしてみればそんなこと公にしてほしくないだろうことが、けっこう書かれている・・・これら友人への気遣いは本村さんになかったのだろうか???

もちろん、文庫本後書きには(平成12年の本には、この「あとがき」はない。平成19年、文庫本になっての「あとがき」だ)・・・【妻の友人や親せきの方々には、知らなくてよいことまで知ってしまい、ご迷惑をおかけすることも危惧しておりました。実際に出版した後に、本当にご迷惑をおかけした方も多数おられますこのことについては、本当に申し訳なく思っています】と書かれている。

だが、なぜか、私は今回の「絶歌」と「天国からのラブレター」が重なった。

「絶歌」出版で、被害者遺族の傷と、「天国からのラブレター」出版で、実名で登場している友人たちの傷と、同列に較べられないが、傷ついたという点は同じではないか、と。

いや、「中原さん」や「由佳里さん」や「高原君」や、ほかいろいろ出てくる友人知人、もしかしたらそれほど傷ついていないかもしれないが・・・
私が彼らの立場だったら、傷つく。なぜ、こんなことを公にするのだ、と。

そして弥生さんにこんなふうに思われていたのか、と、不快な思いをするだろう。
被害者である弥生さんをそう思わないといけない自分にも、やりきれない思いを抱えることになる。

もちろん、平成19年の段階では、皆、いい歳になっており、『昔の思い出』として捉えることができただろうが、平成12年の段階ではどうだっただろうか?

本村さんはたしかに同情されるべき被害者側遺族だが、大いに違和感を持った。

アマゾンのレビューにもそういったことが書かれている。

つまり、この本の印象。正直言って「えげつない」
なので、本村さんと弥生さんのラブラブぶりも、ほほえましさよりも、鼻に突いてしまう。

とはいえ、弥生さん、実家から遠く離れた光市の社宅で、あの若さで、赤ちゃんを一人で育て、その点は本当にすごい女性だと思う。(ただ出産直後から4か月ほどは実家のほうでいろいろ世話してもらったみたい)

本村さんはいつも帰りが遅く、そして腎臓病がいつ再発するか分からず、実際、就職して2か月間入院したこともあり、弥生さんが赤ちゃん連れて見舞いにいったりしているのだ。

今の「イクメン」=男性の育児参加など期待できなかった時代、子どもは母親が育てるもの、子育てを辛いなどという女性は母親失格という空気が健在だった時代だ。
本村さんも安心して家庭をまかせられる女性だったのだろう。
弥生さんの育児日記などに、全く「ネガティブなところ」「愚痴」がないことに、びっくり。

今現在、育児に悩んでいる女性や、育児を辛いと思う女性は、これを読んだら、自信なくすかも。弥生さんのように生きられる女性は、それほど多くないかもしれない。

弥生さんの育児日記と言うか本村さんへの交換日記(しかし本村さんはほとんど返事していない)には、ネガティブな記述がない。いや、ほんとうはキツくて大変だったけど、本村さんが目を通すということで、そういったことはあまり書かなかったのかもしれないが。

今の日本において、弥生さんみたいな人が結婚向き(子育て向き)な女性なんだろうな、と思った。(イクメンできるのは、まだまだごくごく一部の男性だけだろう)
愛情を素直に表現できる弥生さんの子どもも生きていれば、きっと愛情深く、素直でいい性格に育ったことだろうに。

反対に、愛情を表現できない人たち=不器用な人たち(ハヤシも含む)は、甘え下手で、どちらかというと人間関係に苦労し、疎外感を味わう側にしてみれば、本村さんと弥生さんは別世界の人間で、思いを寄せるのにあまりにも遠すぎる存在だな、と思ってしまった。

というわけで、不思議なことに、この「天国からのラブレター」を再読し、「愛されなかった加害者元少年」に思いを寄せてしまった。

もちろん、当時も今も、死刑判決は正しい、と思っている。
(あのような形で何の落ち度もない2人の人間を殺害し、償いようはなく、公平性という観点から「死刑」が妥当だと思う。これは刑罰・・・つまり罰なのだ)

けれど、父親に酷い暴力を振るわれて育ち、母親も父親の暴力で心身を病み自殺、そして父親はフィリピン人と再婚し、新しい赤ちゃんが生まれ・・・
愛されず、家庭というものから疎外されて育った加害者と、本村さんと弥生さんのラブラブぶり(もちろん、二人ともそれ相応に苦労し、弥生さんは母子家庭で育ち、本村さんは病気を抱え、努力してその幸せな家庭を手に入れた)を対比すると・・・不条理を感じた。

この本を知るまでは、『本村さん、頑張れ』の一点張りだったが・・・ちょっと引いてしまった。
本というのは、けっこう影響力あるな、と思った。

本村さんと弥生さんは今の世間が良しとする価値観にぴったり合った二人だ。大恋愛をし、若くして結婚し、子どもを作り、幸せな家庭を築く生き方。弥生さんは愛を表現しながら子どもを育てていただろう。理想の家族になったことだろうに。
犯罪に合わなければ、世間で言うところの「勝ち組」家族だ。(本村さんは新日鉄という在企業にお勤めだ)

ただ、その理想に全く近づけない人もたくさん存在するのでは、とも思った。
そういう人から見たら、本村さんと弥生さんは別世界の人間、人種が違う、遠い存在である。

そうそう、こんな意見を目にした。

もしも本村さんと弥生さんの容姿が、普通以下だったら・・・これほど世間の同情を集め、司法を変えるところ
まで世間を動かせただろうか、と。
もしも容姿が悪かったら、メディアもここまで取り上げなかったかも、と。

なんか、そんな意見に頷くところもあり、世間の本音を思うのであった。

・・・・・・

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