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近隣国問題(尖閣諸島の件) [国家・日本近代歴史・戦争関連]

10月4日
以前は、尖閣諸島は日本のものだとして、中国は認めていたが(文書など、そういう証拠がいろいろとあるようだ)1971年から、台湾および中国が、尖閣諸島は自分たちのものだ、と言い出したのだとか・・・(池上彰の番組で知った)

そのときに毅然とした態度で、「日本のものだ」と態度を明確にすればよかったのに、「波風は立てたくない」ということで、なんとなく、曖昧にしたまま、今日まできてしまった、という感じである。

民主党もなさけないが、自民党も同じようなものではないか、と思ってしまった。
「波風立てたくない」として、自分の主張をあまりしない・・・って、日本人の性質なのかもしれないけれど。

そんな日本に、北方4島はロシアのものだ、とロシアが主張し始めたみたい。
中国へ弱腰だった日本は、ロシアや韓国にもなめられ、北方領土も竹島も失うかもしれない?

なぜ外交で日本はこんなに弱腰にならないといけないのか・・・
経済が弱いから、経済的にもいろいろと隣国に頼っているから、圧力かけられると困るから、というのもあるかもしれないが、やっぱり憲法9条も関係しているのか、と考えてしまった。

いや、憲法9条を維持しながら、とことんアメリカに頼って、隣国を牽制するという方法もあるのだろうけれど・・・
そのかわりアメリカの言いなりにならないといけなくなるだろうけれど。

あるいは、憲法9条を改正し、日本は、隣国を牽制し、警戒したほうがいいかもしれない。領海侵犯する外国に対し、攻撃できる態勢にしないと、「どうせ日本は何もしてこない」と高をくくられてしまい、なめられ、警告も意味をなさないかもしれない。

日本に対し犯罪行為をすれば(=領海侵犯、日本のなわばりを荒らすことも犯罪行為に入るだろう)日本は黙っていませんよ、というのをアピールするために、憲法9条改正をしたほうがいいかも、とこの頃考え直すようになってしまった。

中国だけでなく、ロシアも警戒するべき国である。

そもそも隣国と仲良く・・・なんていうのは幻想かもしれない。

こちらを攻撃すれば、そちらも痛い目に合いますよ、という警告をお互いに発してこそ、「お互いに侵すのはやめようね。じゃないとお互い、損をしますよ」ということが成り立ち、争いごとを回避できるのかもしれない。

よく個人に対しては【自立しろ】と世間は言うが、日本国がアメリカに頼り、自立していないのだから、世間は個人に問うよりも、日本国に問うべきかもしれない。
アメリカに依存するか(助けてもらうか)、それとも自立するか。
もちろんアメリカに依存したほうが【得だ】【国益にかなう】というならば、それもありだと思う。

その代わり、過度に助けてもらう場合(依存する場合)、助ける側の言うことを聞くのは当然=自由は制限されて当然、ということになる。

アメリカの無理難題にも応えないといけなくなる。
そして、アメリカの力が弱まった時、助けては貰えないかもしれない。
依存するリスクというヤツだ。

まずは経済がものをいうというのであれば、隣国は警戒するべき国と自覚し、隣国と経済的取引することは敬遠し、ちょいと遠くの国と取引したほうがいいように思う。(あるいは、あえて・・・警戒するべき隣国と敵対する国と取引をする)

また中国に滞在している日本人はよくよく気をつけたほうがいいかもしれない。
なにかあれば、ちょっとしたことで拘束されるかもしれない。そして、国家間の取引に使われてしまうかもしれない。
それだけ警戒するべき国だと認識したほうがいいかもしれない。

今回の中国の態度で、私も目が覚めた気がする。
ロシアも強硬に出てくるかもしれない。

それに対抗するにはどうすればいいのか。
【毅然とした態度】とは具体的にどうすればいいのか。

ひとつの国に依存しない経済力と軍事力、これがあってこそ強い毅然とした態度に出られるのかもしれない?

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「そこまで言うか」 [雑記]

「そこまで言うか」(西村ひろゆき、ほりえもん、勝間和代 談)感想。

この本のタイトルのように「そこまで言うか」というような過激発言はなし、全体的にはほぼまともなことを言っているように感じるけれど・・・
まあ、ほりえもんの「自分の子供に対する発言」は、「そんなことを言っていいのか?」とは思った。

そう、ほりえもんの【自分の子供に対する発言】は、たしかに「そこまで言うか」であった。
【離婚してからは子供とは会っていない】【子供とは一緒に住みたくない】【子供は放り出されても、生活保護だってあるんだから、なんとか生きていける】というようなことを言い、「過保護は良くない」として「親としての責任放棄に等しい発言」には、違和感をもつ。過保護は良くないかもしれないが、だからといって、放任、放置は良くないだろう。子供と関わるのが面倒、育てるのが面倒、だという免罪符に「過保護は良くない」と言っているだけなような気がする。
ほりえもんは、最初から、子供をもつべきではなかったのでは、と思う。
もちろん、ほりえもんは「これからは子供はもたない=いらない」と言っているが。

なので、勝間さんの以前の著書に書かれていた「歳をとれば妊娠能力が落ちる」として「若いうちに、とりあえず結婚し子供を産んでおこう」という考えにも、賛同しかねてしまう。

よくよく自分の生き方を定め、相手とも話し合い、本当に子供が欲しいのか、責任をもてるのか、育てることができるのか、を考え抜いてから、相手の考えを確認して、覚悟を決めてから、子供をもつほうがいいように思う。
もし相手の協力が得られない場合、難しい場合、それでも子供が欲しいのか、育てられるのか・・・かなり覚悟しないとならないだろう。
そこで、歳をとりすぎ、子供ができなければ、それはそれで仕方ない。

もちろん、若いときから「子供をもつことが最優先。もちろん責任持って子供を育てる。子供のことが最優先」と自分の生き方が定まっている人は、若く体力のあるうちにさっさと子供を持ったほうがいいのかもしれないが。

生き方が定まらない人は、「とりあえず子供をもつ」という考えはやめたほうがいいかもしれない。
子供をもってしまった後で「やっぱりやーめた」「子供、いらない」というわけにはいかないからだ。

子供をもつ、というのは一番責任が問われるような気がする。仕事や結婚は合わなければ「やめる」ことはできるが、子育てを放棄するにはいかないからだ。

ただ、最終的に児童養護施設で公に面倒をみてもらうという方法もあるので・・・経済的にどうしても育てられない、あるいは、虐待してしまう、といった親は、子供を手放したほうがいいだろう。

けど、今、児童養護施設は、定員いっぱいだとか・・・
「子供手当て」をバラまくよりも、児童養護施設を増やしたほうがいいかもしれない。

その前に、責任もって子供を育てられないのであれば、最初から子供をもつな、という教育をしないといけないのかもしれない。
「とりあえず若いうちに結婚し子供を産んでおこう」という勝間さんとは反対の考えになってしまうが、児童養護施設が定員いっぱいになってしまうほど、子供を育てられない親がいるということで・・・今回、ほりえもんの「自分の子供に対する無関心さ」を目の当たりにして、勝間さんはどう考えているのだろうと思ってしまった。

もちろん、生活保護同様、公が最終的に面倒をみてくれるからなんとかなる、ということで、「親は子供の面倒をみられなくなれば、別にみなくてもいい。とりあえず産んでおこう、とりあえず子供をもってみよう。育てられなきゃ最後は公に頼めるのでなんとかなる」というのであれば、そういう考えもありかもしれないが。

ほりえもんは、必ずしも親がいなくて不幸ということにはならない、養護施設で育ったから不幸ということにはならない、と言うかもしれないけれど。

やっぱり、ひろゆきさんが言っていることが一番しっくりくるというか、説得力があるというか、納得できる。けど、厳しいことも言っている・・・というか、突き放しているというか・・・

なので、なんやかんや言っても、勝間さんが一番、人に対し「親切」なような気がする。勝間さんの言っていることが正しいかどうかは置いておいて。

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