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表現の自由VS性的マイノリティの権利?>境界のないセカイ [本・テレビ番組・ドラマ・映画・マンガ・アニメ]

表現の自由VSマイノリティの権利?

「境界のないセカイ」という漫画が人気があったにも関わらず、表現に問題があると言う理由で打ち切りになった件について。

私は読んだことがないので、この件について発言する資格はないかもしれないが、気になったので話題にする。

まず作者の方の、この経緯について書かれたブログ記事を紹介。
http://ikuya.sblo.jp/article/115089330.html

一部、転載。

講談社さんが危惧した部分は作中で"男女の性にもとづく役割を強調している"部分で、「男は男らしく女は女らしくするべき」というメッセージが断定的に読み取れることだと伺っています。
(私への窓口はマンガボックスさんの担当編集氏なので、伝聞になっています)

これに対して起こるかもしれない性的マイノリティの個人・団体からのクレームを回避したい、とのことでした。

これが顕著にみられるのは本作第5話で、バーチャルリアリティ空間内で女性化した主人公に対して男性の恋人があてがわれ、オペレータが「女性の恋人は男性であることが当然である」ように語るシーンがあります。
このオペレータの台詞が同姓を愛する方々にとっては酷いことを言っている、という認識はありました。
だったらなぜそれを言わせたのか。

この作品は男女の性別の行き来が可能になった世界を描いています。
その世界ではセクシュアリティに特に疑問を持たない、無関心な人たちは「男(女)が好きなら女(男)になれば良いのでは?」と考える人が比較的多いのではないか、と考えていました。

そして物語が進む中で主人公はヒロインをはじめとして性の越境を行った人に触れる中で、こうした無関心から来る考え方にすこしづつ疑問を抱いていき、最終的には多様な生き方に寛容な考えを持たせていくつもりでおりました。
ここの描写は背景世界の説明の一部であり、主人公の変化を描く過程の一部でした。

問題となった描写は作品世界内の個人の発言でしか無いこともあるし、それが現実世界において好ましくない意見だとしてもいずれ作品総体としては否定されていく意見であるので、最終的には問題なくなると判断していたのです。

また第5話執筆前後でのマンガボックス編集部との打ち合わせにおいても、ここは問題になるまいという判断がされていました。
しかし、単行本化に当たって問題となって浮上してきたわけです。

単行本化の段階で問題となるとわかっていれば、背景世界の提示はそれが必要となる直前まで後回しにすることもできましたし、連載中の打ち合わせの中で回避することもできたはずです。
この出版担当の講談社-編集担当のマンガボックス-著者の3者の連携がきちんと取れていなかったことが今回の連載終了に至ったいちばん大きな原因であるように思われます。

結果、本来作中で肯定する意図のない(むしろ後に否定したい)部分が問題となって発行中止となるのは無念でなりません。


転載終わり。


ということで、え? これが問題になって、連載が打ち切りになるのか??? ちょっとびっくりした。

しかも「クレームが来るかもしれない」と? 実際、クレームが来たわけではないのに、「来るかもしれないから回避したい」と打ち切り?

この件で、性的マイノリティの人も困っているらしい。いかにも自分たちが、この漫画の打ち切りを望んでいるかのように扱われたことが。

「マイノリティの人たちって、ちょっとしたことで大騒ぎして、傷ついた、差別されたと抗議するんだな、当たらず障らず・・・だな。怖いな。こういった人とは付きあわないでおこう。いつ自分が悪者に仕立て上げられるか分からない」と、マイノリティを敬遠する者も出てくるのでは、と。

作り手も、キャラクターに何か「問題発言」させることができなくなるな。
この打ち切り問題に疑問を感じた。これって表現の自由への侵害につながるのでは、と。

作者も以下のように発言されている。
一部転載。

作者という立場から一歩引いた立場にで考えると、講談社さんが萎縮する事にも同情的な気持ちにもなってきています。
というのは最近、特に渋谷区が同性カップルをサポートする条例を出して以降、性的マイノリティに関わる言説が過激になってきているようなそんな空気を感じるからです。

先週渋谷区で同性カップル支援を批判するデモがあったと聞いて驚きました。
批判的な考えの人がいることは判っていましたが、デモという行動をとるほどに拒絶感が強いのか、と。
性的マイノリティへの世間の理解は確実に進んでいると感じるのですが、同時にこれに関わる対立も深く、対立と共に支援する人も、反発する人も発する言葉が強くなっている気がします。
編集さんの一人は「タイミングが悪かった」とも仰ってました。

こんな空気の中では、出版社もこの話題に安易に触れることは危険だ、関わらないでおこうという判断も出てきてしまうのかなあ…と。

転載終わり。

騒いだもの勝ち、抗議したもの勝ちってことかな。
そうすれば相手を委縮させ、黙らせることができる。

権力者の圧力も怖いけど、デモを結成できれば市民もこういった圧力をかけることができるのだな。
で、発信する側は「当たらず障らず」になっていく。
表現の自由は憲法で保障されているというのに。

ところで・・・
「同性カップル支援」って、要するに「法的に結婚を認めてほしい」「一般の夫婦と同じ権利が欲しい」ということなのかな?

私はこの辺はよく分からない。同棲じゃダメなのか、と。法的な何か(扶養控除、扶養手当みたいなもの?)が欲しいのか。

結婚制度そのものを否定するフェミニストの人もいるし(田嶋陽子氏とか)・・・

ま、でも保守派の人の意見「結婚制度は、その夫婦の間に生まれた子どもを守るための制度。夫婦のための制度ではないし、妻の権利を守るための制度でもない」という話を聞き、「なるほど」と納得してしまった。

結婚というシステムは、「子どもという本当の弱者」を守るための制度。
だから、子どもの世話をする妻(あるいは夫)が働けない場合を考慮し、家の経済を担当する夫(あるいは妻)に扶養義務を負わせ、不貞も働かないよう、縛りをくわえている(不倫した場合、その不倫相手を訴えることができ、慰謝料を請求できる)のだろう。もし不倫されて、離婚されたら、それまで子どもの世話をし、経済力を手放した妻(または夫)が大変困ることになる。安心して子育てできない。

つまり、結婚は「義務を負わせ、子どもを責任もって育てさせるようにするシステム」と捉えていいだろう。

子どもを持つことがなく、扶養義務も発生しない場合、一般の夫婦と同じ「権利」って必要なのか? と。
まあ、子どもを持たない夫婦だっているけれど、こちらは「持つ可能性がある」ということで。

同性カップルはどうしたって生物上、子どもは持てないだろう。
いや、女性同士のカップルであれば、ほかの人の精子を使って、子どもを産むことができる、子どもは持てる、と言うのかもしれないが。
ならば男性同士のカップルだって、ほかの人の卵子を使い、ほかの人に産んでもらえば、子どもは持てる・・・(日本は代理母は認められていないけど、実際は、向井亜紀さんなど、代理母を使って子どもを持つ人もいる)

同性カップルは、そこまでして子どもを持ちたい、子どもを持つ権利がある、と考えているのだろうか。

そういえば、他人の精子で生まれた子ども自身、遺伝的につながる親を知りたい、会ってみたい、という人がわりといる。けど、誰なのかは分からない、知らされない場合もけっこうあり、子どもが遺伝上つながりのある親を知る権利が阻害されている。

けど、子どもの知る権利を尊重するようになったら、精子提供者はいなくなるだろうし。(日本では、赤の他人に対し、匿名で卵子提供することはできないよね?)

難しい。誰の権利が尊重されるべきか、同等の権利とは何か? ということで。


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