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自信とコンプレックス [人生・生き方・生活・人間関係]

勝間和代さんのブログにある【挑戦する数が多ければ、失敗も多いが、成功することも多くなる。よって、まずはたくさん挑戦しよう】という・・・つまり「数打ちゃ当たる」という考え方に共感はするのだが・・・↓
http://kazuyomugi.cocolog-nifty.com/private/2010/04/post-178c-1.html

「試行錯誤を繰り返し、失敗もするだろうけれど、でも、きっと自分はできる」という【自信】がないと、できないことである。自信がない人は、挑戦する気すら持てないかもしれない。

では、どうしたら自信をつけることができるのか・・・
「心がどうしても・・・自信持てない」という場合、「挑戦しないと何も始まらないと頭じゃ分かっているが・・・」というヤツで、難しいかもしれない。

でも、それはそれで「慎重」ということでもある、と思うのだ。
チャレンジの数は少なく、よって成功数も少なくなるかもしれないが、だからといって「不幸だ」とは言えないだろう。
チャレンジしない=チャレンジしないでいい、ということもでもあり、そういう選択ができるということは幸せなことである。嫌なのに無理やりさせられる、というのより、ずっと恵まれているかもしれない。

ああ、そうそう、別のところで、こんな記事もあった。http://www.webdoku.jp/tsushin/2010/05/08/123418.html
モテるには、とにかく、片っ端から誘ってみろ、そのうち1人くらいはYESという人もいる・・・まさに数打ちゃ当たる・・・同じ理屈だね。

ただ、やはりエネルギーいるし、そこまでして【欲しいのか】ということなのかもしれない。
彼氏彼女を作り、いちおう「お付き合いするとこ」までいけば「恋愛した」ということになるのかしら。ま、でも関係は長続きしない感じがするね^^;すぐに飽きてしまい、また次の人にチャレンジしていくんだろうね^^;

さてさて、話を元に戻して・・・
ちょっと前のネタになるが、「勝間和代VS香山リカ」について、なるほど、と思った記事があった→http://blog.goo.ne.jp/cqad/e/8d8f4a9dacb8180f3c7c5b8125f55f89
この記事にも共感した・・・私もやはり勝間さんは「強者」だと思う。自信があんまりない人には、勝間さんの考えに、頭では分かっちゃいるが心はついていけないかもしれない。

そこで、自信喪失している人へ↓この本をおすすめしたいと思った。

最初から中盤くらいまでは、主人公のどん底の欝的状況が続き、なかなか好転せず、世間で言うところの成功には程遠く、ただ生活するのも大変といった状況・・・(だからこそ、自信喪失の人には共感できるところもあるだろう)、ほんとうに【生きる】って大変なことだな、と思った。でも、なんだか生きることだけでも、すごいことなのだ、とも思える。
生き方指南の本よりも、こういった小説のほうが共感でき、勇気をくれる場合があるかもしれない。


さてさて・・・
自信をもちたいのに、コンプレックスというやつが邪魔をする。
そこで、コンプレックスについて考えてみた。

人の生き方にケチをつけたがる世間様(メディア・著名人の発言ももちろん入る)に、屁理屈並べて反論するのが趣味と化してしまったブログであるが・・・ネットをやってみると、いろんな人のネガティブな部分、コンプレックスにも触れることができ、わりと共感してしまう。

コンプレックスはそう簡単に克服できないし、自信を奪う。
そして、そのコンプレックスは優劣付けたがる世間様(周囲)の口出しにより、ますます強まるのかもしれない。

もちろん、コンプレックスこそ原動力という強い人もいるだろう。
おそらく・・・勝間さんもそういうタイプなのではないか、と思う。
「コンプレックス」でさえプラスに捉え、己の成長に利用し、「コンプレックスをいかに克服するかが楽しい」と言いかねない・・・気がする。

そんな超プラス思考の勝間さんの哲学、考え=勝間理論も納得できるのだが、やはりそれは「自分に自信を持てる強者」の論理なのかもしれない。

勝間さんを信奉するカツマーの人たちも、基本的に自信をもっている人たちだろう。
「自信がないなんて甘えている。結局、努力しないための言い訳」と思っているかもしれないし、実際、そうかもしれない。

が、そんな強者の論理ではなく・・・
自分に自信が持てず、世間から見下され批判されがちな、世間で言われるところの「負け組」=「弱者」の視点で物事を見てくれる香山さんや益田ミリさん、中村うさぎさんの考え、哲学にも共感でき、救われる部分がけっこうある。

とくに、私は、益田ミリさんと中村うさぎさんに注目している。
益田ミリさんの「すーちゃんシリーズ」は、どちらかというと世間から批判されている側、かわいそうだと下に見られる側からの視点に立っている、という点で・・・
中村うさぎさんは、自らのコンプレックスを正直に告白し、それを客観的に論理的に分析し、それにより世間のおかしい価値観がかいま見えてくる・・・中村さんも、世間から下に見られる側の視点から物事を分析してくれている、という点で・・・この2人の著書には、勝間論にはない考え方がある。

自分に自信がもてるかどうか・・・これはもう育った環境と、人に認めてもらった(褒められた)経験の多い少ない、否定された(あるいはバカにされる、いじめられた、嘲笑された)経験の多い少ない、そして性格で決まるものなのかもしれない
私も自信はないほうで、どちらかというと卑屈になりがちだった・・・なので、ネットで他の人のブログなどを見ると、「私もそうだった」と共感し、考えさせられてしまうのだ。

というわけで、私も決して真の「カツマー」にはなれない。なりたくてもなれない。

やはり「自分は劣った人間である」という思いからは逃げられないし、劣った部分をなんとか努力して克服してみせよう、という気にもあんまりなれない。でも、こういう人、けっこう多いのでは、と思う。
そういう人は「コンプレックスを克服するための大いなる努力」はできないだろう。まず自分を認めることができないのだから。

なぜ、そうなってしまったのか・・・たぶん、どちらかというと否定され、嘲笑された経験のほうが多い(・・・というか、自分はマイナス経験のほうばかりが心に残ってしまうネガティブな人間なのだと思う)ので、自信がもてなかったんである。
おそらく今まで、自分なりに目的を達成しても、周囲に足りない部分を指摘され、「まだまだお前はダメなんだ」というネガティブ評価をされてきたことが多いので、「基本的に自分はダメである」と洗脳されているのかもしれない。これは染み付いてしまった性分なのだろう。

私だけでなく、謙遜社会の日本人にわりと多い気質かもしれない。

なので、世間から支持されるよう「まっとうと言われる生き方」をしている人たちは立派だと思いつつ、「世間から下に見られがちな人たちの嘆き」にも共感してしまい、ついついその立場から、世間様に吼えてみたくなるのだ。

そこで、こういう提案を世間様にしてみたいと思った。
「普通=できて当たり前」という生き方の基準をもっと下げて欲しい(笑)

どういうことを言いたいのか、説明しよう。

まず・・・
http://asaippoi.exblog.jp/13394327/に「昔はモテる人が特別で、モテないことが普通だったのに、今は、モテないことが否定的に見られている」というようなことが書いてあり、「なるほど、たしかにそうかも」と頷いてしまった。

恋愛(両想いで熱烈に愛し合う経験)ができる人も、昔は少なかったと思う。大多数は、そういった経験もなく、個人恋愛などする機会もなく、早々に親からお見合いをさせられ、結婚したのだろうから。つまり恋愛できる人は特別で、恋愛しない人できない人のほうが大多数で普通だったのかもしれない。

もちろん、結婚に限っては、大多数が結婚していたので、結婚しない人はそれはそれは今とは比べ物にならないほど肩身の狭い思いをしていただろう。(そして、子供のいない人も)

が、時は流れ、恋愛することが普通になり、お見合いよりも恋愛で結ばれる結婚も多くなり、それが「普通」となってしまった。よって、恋愛しない人が下に見られるようになり、恋愛しないので結婚もしない(もちろん、子供も持たない)人が増えてしまったということなのかもしれない。

少子化をなんとなしたい世間様にとっては由々しき問題かもしれないが・・・

あえて世間様へのお願いとして、「恋愛できないのが普通、結婚しない(=子供も持たない)のが普通」と見て欲しい、と思った(笑)

恋愛するのが普通であり、結婚するのが普通であり・・・今だって、恋愛する人や結婚する人のほうが圧倒的に多いだろう。だから「普通」「できて当たり前」ということになっている。

けど、そこを「恋愛した人や結婚した人はとても立派で偉い」ということにして、「できないのが普通」ということにしてもらえたら、精神的に救われる人もわりといるんじゃないだろうか。そんなにコンプレックスを感じなくて済むんじゃないだろうか。

以前、朝日新聞の読者投稿欄などでも「今では結婚することは【贅沢なこと】となった」みたいなことが書かれた記事を目にした。
そう、恋愛も結婚も子供をもつことも「贅沢なこと」であり、それなりの資質、才能、努力、環境、運がないと「できないものなのだ」ということで・・・それらができた人たちは「すごい」のだ。

世間様が認める生き方ができる人たち・・・恋愛経験豊富で、周囲に祝福される結婚をし、子供を育て、その子供もうまく育ち、家族と良好な関係を築き、仕事にも生き、たくさん稼ぎ、趣味も充実、友だちもたくさんいて、誰にも依存せず自立していて、人生経験豊富で、自信をもち幸福感をもって生きている人であり・・・たとえて言うなら「東大生」なのだ。

(※もちろん、東大に入ったから人生バラ色というわけではないだろうし、その中でも勝ち負けがあるだろうし、劣等感をもつこともあるだろう)

東大に入れるのは一般的にはやはり優れた人ということになるだろう。入りたいからと言って誰でも入れるわけではない。なので、東大に入れなかったからって、劣等感をもつ人っていうのはそれほどいないだろう。入れないことのほうが【普通】なのだから。入れない人は劣ったダメ人間ということにもならない。

ということで【普通=できて当たり前】というレベルを下げて欲しいのだ。
恋愛できないしない、結婚できないしない(子供もいない)、仕事ができない、稼げない、友だちがいない少ない、などなど、これらを【普通=できなくて当たり前】としてほしいのだ。^^

そして、この中の一つでもできれば「すごい」ことであり、幸せなことなのだ・・・


最後に・・・朝日新聞の記事に、気になるちょっと深そうな言葉があった。
うろ覚えだが・・・【他者を気にせず、他者と優劣を競わないで生きるということは孤独である】というようなことだ。

孤独を受け入れれば、他者が気にならなくなり、よって優劣も気にならなくなり、おそらく、それほどコンプレックスも感じずにすむようになるのかもしれない。

他者を気にして優劣を競い合うのもあり、他者を気にせずに孤独に生きるのもあり、といったところだろうか。

私も歳をとり、感覚も鈍くなり、世間=周囲の評価があんまり気にならなくなったが・・・気にしないでいられるということは、世間からちょっと距離を置いているということでもあり、【孤独】かもしれない。

でも、最近、ちょいと身近に、「自分には価値がない」と悩み、努力も報われず、ずっと自信喪失状態が続き、心を壊した者がいるので、考えさせられた。
心を壊すよりは、世間とは生活できる最低限のつながりだけを持ち、できるだけ遠ざかり、自分の心を守ったほうがいいと思う。自分の心=脳、ということになるが、これのコントロールがきかなくなると、本当に困ることになる。

「がんばるな、今のままで充分じゃないか」と訴えていた精神科医の香山リカさんの言葉が身にしみる。
挑戦などせずに努力せずにすむのであれば、しないほうが良い、ということもあるのかもしれない。

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