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「Aではない君へ」と「母親やめてもいいですか」と「家族という病」 [本・テレビ番組・ドラマ・映画・マンガ・アニメ]

6月5日追記

「Aではない君へ」(殺人を犯した子どもと真剣に向き合う親の話)を紹介したが、これとはまったく真逆の作品に興味をもった。

「母親やめてもいいですか」

内容は発達障害の子どもを愛することができず、育児がしんどくて、結局、離婚をし、夫が子どもを引き取ることになり、子どもから逃げた(母親であることから逃げた)実録・エッセイコミックだ。
きれいごとなし、実録ものであってフィクションではない、世間から非難を浴びるであろうに、この作者はすごいなと思うと共に、このコミックの内容を知ったら子どもは傷つくかもな、と思ったり・・・
アマゾンのレビューは賛否両論。
で、レビューを見て、なぜ「家族という病」が売れているのか分かった気がした^^;
「A~」「母親やめても」・・・やはり親になるには、男も女も相当の覚悟が問われるなと思った。
覚悟がない人は親になってはいけないのかもしれない。そのかわり、覚悟を持ち、子育てしている人はもっと尊敬されていい。当たり前のことではなく、偉いことなのだとつくづく思う。

・・・・・・
5月23日
薬丸岳氏の「Aではない君へ」、読ませられた。これぞ人間ドラマ。リアリティもある。
こういった小説を読むと、大事なのはどんでんがえしでもなく、トリックでもなく、いかに人間(キャラ)をご都合主義なく、きれいごともなく、ウソっぽくなく、きちんと描くか、だよなと思った。

この物語は少年犯罪と加害者側の家族の、親のあり方を描いている。

主人公・加害者側である父親は、離婚をし、のちに殺人を犯す息子は母親に引き取られ、自信はやりがいのある仕事にまい進し、新しくできた恋人と恋愛中で、というような、幸せな暮らしをしていたのだけど・・・殺人犯した息子のために、立ち直っていこうとするお話なのだけど・・・

息子は妻に引き取られたものの、放置していたというわけでもなく、ただ、いじめられている息子の様子に気が付かなかっただけであり、父親としては子どものことを愛している普通のお父さんである。
ただ、自分がやりたい仕事や恋人のことにも夢中になってしまっただけである。

子どものいじめに気付かない忙しい親御さんは多いだろうし、干渉しすぎても、それはそれでうまくいかないこともある。

親はここまで子どものことに心を砕き、気遣い、見守り、目を離さず、子どものためにほかのことはあきらめ、子どもが最優先であり、子ども以外のことに夢中になってはいけない(=ほかのことに夢中になれば、やはり子どもへかけるエネルギーは減ってしまう)、しかし過干渉もだめであり、とにかく子どものことを一番に考え、子ども中心に生きなくてはいけないのか、と親の大変さを痛感させられる話である。

主人公・父親は、子どもの犯罪で、親は左遷され、でも食べていかなくてはならないので、仕事はただ最低限の生活をするためお金を得るためのものとなり、恋人とも別れ、今までの生活がすべて「なし」になる。
けど、それは「子どもにきちんと向き合えず、子どもが発するSOSに気付かなかった自分=親の責任」となり、罪を犯した子どものために生きる=それが親の生きる道、ということで・・・
いやあ、しんどそうだ。
で、これを、しんどい、自分にはできない、自信がない、責任取れない、という人は子どもをもってはいけないのかもしれない? ならば、少子化はごく当然の現象かもしれないと思ってしまった。あまりに「子ども」はリスクが高い。もち犯罪者になるのは、ごくごくわずかだろうけれど。犯罪者にまでならなくとも、職を得て自立できるのかなど、親の心配事は尽きないだろう。
現実社会でも、子どもの犯罪で家族が破壊されることもあるだろう。

古くは、幼女を殺害した宮崎勤事件、少し前になるが同級生を殺害した女子高生、ともに加害者の父親は自殺した。残った加害者側家族も逃げるような暮らしを一生続けることになるのだろう。
(もちろん被害者遺族の苦しみも一生続くのだろう)

この物語を読んで、家族万歳、家族って素晴らしいという気持ちにはなれなかった。で、ふと下重暁子氏の「家族という病」を思ってしまった。
子ども優先の生活ができない人は、他にやりたいことがある人は、子どもはもたないほうがいいかもしれないと。
子どもを犯罪者にすることなく「家族って素晴らしい」「家族が一番」と思えるように育てている人というのはほんとうにすごいことなのだなと。子どもを頼りにできる親、あるいは子供に夢や希望を持てる親は本当に幸せかもしれない。
と、昨今の犯罪事件のニュースに触れるたびに思ってしまった。
今回も、アイドルの女性を、めった刺しして重体にさせた27歳の男がいるが・・・加害者側の家族はこれからどうするのだろうか。やはり親や家族は責められるんだろうな。もちろん被害者側も本当に気の毒なのだけど。
ほかにも千葉大にまで行って、中学生を拉致監禁したりした男、女性に乱暴をした東大生の男など・・・私はつい加害者側の家族のことを思ってしまう。
よほどの人格者であり、コミュニケーション能力が高く、子どもを導いていける人(子供に何かあったらきちんと気づき、正しい対処をし、過干渉でも過保護でもなく正しい距離をとり、正しい愛情でもって育てられる人)でないと、子育ては無理なのではと考えてしまうのであった。

で、私のようにネガティブへ引っ張られる人も^^;
加害者側の家族を思うということは、自分のどこかに「縁がある」ということかもしれない。加害者側家族を自分とは遠い別の世界の存在、別人種と切って捨てられないのだ。

愛情に正しい、正しくないがあるのか、とも思うが、世にいう過干渉は『正しくない愛情』なのだろう。きっと「それは親の支配欲」「本当に子どものためを思っているわけじゃない」と切って捨てられる。けど、その親にしてみれば「愛している」と思って、全エネルギーを子どもにかけているのだろう。

改めて、子どもをもつことの責任、子どもに対する向き合い方って本当に難しいのだなと思った。この世で一番難しいことなのではと。
なので、それをこなしている人は本当に偉いのである。子どもの資質もあるだろうけれど。
犯罪者の中には、やはり育ちではなく、その子どもがもって生まれた性質(サイコパス的なもの、性的嗜好など)もあると思う。

子育てを「人間として当たり前」「皆がやっていること」と片づけられないのでは、とつくづく思う。
子どもをもつことは、ものすごい覚悟がいることなのだろう。なので子どもをあえて持たない人が増え、それが半分になっても驚かない。
「親はなくても子は育つ」「なんとかなる」と気楽に思えない現代である。

が、子どもをもたなくてもいい時代ともいえる。それはそれで幸せだと思う。子どもを持たなくてはいけないと圧力があった時代に較べたら。
多様で自由な生き方を良しとする。ここは私は左派(朝日新聞)と考えが合うのだけど^^;
結婚し子供を持たなくてはいけない(持つ努力をしなくてはいけない)、それこそ人間として正しい生き方だ、社会のために子どもを増やせ、とする保守の人たちとは合わない。

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