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美醜コンプレックスと、講談社つながりのネタ [本・テレビ番組・ドラマ・映画・マンガ・アニメ]

松浦だるまの「誘」読んだ。
情景描写に心理描写を絡めるあたり、ほんと上手いなあ、読ませられたなあ、すごいなあ~、ということで、
犬村小六の「とある飛空士への追憶」そして「~夜想曲」と共に楽しませてもらった。(「飛空士への夜想曲」は読んでいる途中)

その「誘」について。
・・・丙午の醜い女が、醜いがために村の人間から迫害される話、人間扱いされない話。なので復讐し、ある方法によって、醜い顔を捨て、美しい顔を手に入れる・・・自身も醜い自分とさよならしたい、醜い自分は死んだ、ということにしたい。

醜さは悪なのだな・・・

今でも、こういった記事があるくらいだし、http://p.booklog.jp/book/75662/page/1893830
原爆投下も、トルーマン大統領は「日本人は野人、醜い、人間ではない、黄色い獣」と思っていたから、できたんだとか?
「醜い=人間ではない=獣=人間扱いしなくていい=とことんいじめてやれ=迫害してやれ=殺していい」ということで、「誘」の話は、ホラーファンタジーではあるが、けっこう現実をうつしているお話かもしれない。(美の基準がどこにあるのかはおいておいて)

ま、容姿で人生が左右されることはけっこうあったりする。
容姿は劣等感を刺激することを、皆、わかっている。

容姿のことをからかえば、たいてい傷つけることができる。
直接的に「ブス」「デブ」「チビ」「ハゲ」「小太り」「目が小さい」「顔がデカい」と言うケースと、巧妙に「○○に似ている」と言い、暗に「お前は容姿が悪い」と示す場合もある。こちらのほうが多いかもしれない。

直接的に失礼なことを言う人は、その場限りの人間に多い。
周囲もさすがに引いてしまう。
皆が分かるような失礼なことを口にする人は、皆から敬遠されるので、その場限りの通りすがりの人間以外、お目にかかることはあまりない。

巧妙に、人の容姿を笑い、からかう人・・・「○○に似ている」発言。

つまり「○○」は、容姿の冴えない有名人だったり、あるいは仲間内では知っている容姿の冴えない人だったり・・・要するに「○○に似ている」と言われても、苦笑いするしかない状況にさせるわけだ。もちろん「○○さん」にも悪いけれど、「○○に似ている」と言われて嬉しいはずがないことは、相手も承知しているはずだ。

巧妙な意地悪をしている自覚がなくても、「からかい」「笑いもの」にしていることは自覚しているはず。

けど「○○さんに似ていると言われるのを嫌がると言うことは、○○さんに失礼だ」ということで、「○○さんに似ている」と言うのは意地悪でも何でもないんだよ、ということになる。悪気のないからかい、となる。

けど、本当は悪気があったりして・・・こういう場面に遭遇すると、なんだかイヤなものを感じ、そういうことを口にする人からは離れるようにしている^^;

そう、容姿が劣っていることは重々承知。人前でも控えめに、できるだけ表に出ないようにしているのだから、許してほしいものだ^^;

「本当のブスには容姿のことでからかったりしない」などと言う人もいるが、あきらかにマイナスを示す容姿のからかいをするのは、笑いものにしよう、という意図を感じてしまうので、少なくとも好意は持っていないのだな、と思う。
嫌われてもかまわない=どうでもいい人、という扱いを受けるのは、やっぱり気分は良くない。笑いものにせず、いっそのこと無視してくれ、と。

容姿コンプレックスは、よほどの美人やイケメンでない限り、誰でも持っているだろう。

巧妙にマイナス表現を仕掛けるのは、意外と「ご自分もコンプレックス持っているよね?」という人だ。だから、悪意を感じる。その人自身、同じことをされたら嫌なことを承知してやっている気がする。悪気なくやっているのではなく、悪気があってやっている・・・ように見えてしまう^^;
おそらく、同じようにやり返したら、空気は相当悪くなる気がする。

ま、不愉快な気分にならないためには、逃げることができるなら逃げるが勝ち^^;

今は「花粉症です」ということで帽子かぶってマスク姿で顔を隠しても不振がられない良い時代?になった^^;・・・いや、私のようなひとにはね。


さてさてさて、この「誘」であるが、星海社から出ている。

で、その星海社には、ちょっとまえに話題にしたあの『コルク』へ移った編集者がいた、とか、そこの副社長が講談社編集者、とか、講談社が出資している、とか、
なんだか、いろいろ話題を見つけたのでネタにする。

まず星海社の小説で新人賞をとった作品の盗作疑惑について、いろんな記事があった。

盗作された方の・・・いや、盗作というほどのものではないが、たくさんの類似点があると訴える作家さんの言い分はこのようだ。
http://togetter.com/li/599860?page=1

対して、真似したとする作品に賞を取らせ、その担当となった編集者の反応
http://sai-zen-sen.jp/works/extras/sfa010/01/01.html

(この編集者の方が講談社出身、というか、今でも講談社とつながりあるのだろうな)

ま、私は読んでないし、ほかの人の意見も様々「盗作だ」という人もいれば、「オチも違うし盗作ではない」「騒ぐほどのことではない」という意見の人もいる。

それよりも、この星海社の新人賞に送られた作品について、編集者らが座談会と称し、けっこうキツイことを言っている様子を公にしていることに、ちょっとびっくりした。

いや、真面目に講評しているところもあるんだけど、このほかにも何回かある「座談会」をいろいろのぞいてみると、投稿者に対し「失礼なこと」を言い、それを公にしている箇所を見た時、もしかして投稿者をバカにしている?、と思ってしまった。

クソ原稿、クズ原稿を送ってくるな、と公にモンクを言うのであれば、募集やめればいいのに^^;ま、読むの辛いのは分かるけど。
募集やめれば、クソ原稿やクズ原稿は送られないのだから。

いやあ、私もそうだけど、自分の作ったものは「クズかどうか」「クソかどうか」判断できないのだ。クズ、クソだと思えば、最初から送ったりしない。

「お前は、自分の作ったものが、プロの作品と並べられると思っているのか? 頭おかしいんじゃないのか」と言われそうだが・・・うん、頭、おかしいかもしれない。おかしいから、描けるのかも^^;
クソだと思っていたら、最初から描かないもの。

漫画だと、最初の2,3ページ見て、つまらん、と思ったら、編集者は読まないで、パラパラ~とめくり、目を引くところがあれば、そこで止まるが、そうでなければ、そこでおしまい。1分もかからん。小説の場合はどうなのだろう?
ま、辛いと思うってことは、「クソ原稿」でもいちおう最後まで読んでいる、ということかもしれない。だとしたら、それは偉い、と思うけど。

いや、このキツイ座談会、わざと「キツさ」を売りに、話題になることを目的としているのかもしれない。
インパクトはある。これで星海社という出版社は印象に残る。少なくと私は、星海社がどんな本を出しているのか、興味も持った。

この座談会といい、盗作疑惑問題といい、話題にはなる。宣伝の一環として行っているのかもしれない。

・・・そういえば、漫画家も含め作家、その志望者って、人間扱いされない場合もあるのかもなあ、と。

こういう漫画を見つけた。
連載が決まっていて、いろいろ作業を進めていたのに、急に「なし」になってしまったお話。契約書をかわしているわけでもなく、口約束だから、そのようなケースになることもあるのだろう。おそらく実話だ。本人が経験したのか、あるいはほかの漫画家の体験なのかは分からないけれど・・・
http://ent.smt.docomo.ne.jp/article/17479
※この漫画家さん、講談社のモーニングで活動しているようだ。

契約書なしで口約束で仕事が進む・・・一般の社会では考えられない。それだけ軽く見られている、ということなのかもな。(このことは前にも話題にした)

口約束だから、いつでも反故にできる。

作家や漫画家は先生と呼ばれるが、実は人間扱いされていない、のかもしれない^^。いや、売れっ子は「先生」だろうけれど。

人間扱いしてないのを隠すために「先生」と呼んでいるのかも^^;

先生じゃなくていいです、そのかわり、人間扱いしてください、と思ってしまった。

そう言えば、前回話題にした「境界のないセカイ」を、クレームがくるかもしれないからといって突然、打ち切りにしたのも講談社だっけ。

ま、講談社関連ネタということで。(悪口じゃなく、たまたま、こういったネタを講談社つながりで見つけてしまった、ということじゃ)
松浦だるまさんも、講談社で漫画連載されているし・・・

・・・・・・・・・
余談。

大手出版社の編集者の給料の高さ・・・コストかかりすぎという意見も聞く。海外では、編集者は、本当に『編集の仕事』しかしないので、給料は低め、つまりコストがかからないという。日本は「作品を作る時」にかなり編集者が関わる。とくに漫画は。

漫画家にとって、どっちがいいんだろう・・・
編集者は作品の内容には関わらず(問題表現については口出しをするだろうけど)、好きなように描かせ、その代わり人気がなかったら打ち切り、すべて漫画家の自己責任となるか、
あるいは編集者が人気が取れるようにと口出しをし、作品の内容に関わり、おかげで人気が取れればいいけど、取れなかった場合、打ち切りになるのがいいのか・・・

編集者が作家の面倒見過ぎるから、その分、給料が高いのだ、と。
面倒見てもらいたい作家、反対に、好きに書かせてほしい(描かせてほしい)作家、いろいろいるのだろうな。


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表現の自由VS性的マイノリティの権利?>境界のないセカイ [本・テレビ番組・ドラマ・映画・マンガ・アニメ]

表現の自由VSマイノリティの権利?

「境界のないセカイ」という漫画が人気があったにも関わらず、表現に問題があると言う理由で打ち切りになった件について。

私は読んだことがないので、この件について発言する資格はないかもしれないが、気になったので話題にする。

まず作者の方の、この経緯について書かれたブログ記事を紹介。
http://ikuya.sblo.jp/article/115089330.html

一部、転載。

講談社さんが危惧した部分は作中で"男女の性にもとづく役割を強調している"部分で、「男は男らしく女は女らしくするべき」というメッセージが断定的に読み取れることだと伺っています。
(私への窓口はマンガボックスさんの担当編集氏なので、伝聞になっています)

これに対して起こるかもしれない性的マイノリティの個人・団体からのクレームを回避したい、とのことでした。

これが顕著にみられるのは本作第5話で、バーチャルリアリティ空間内で女性化した主人公に対して男性の恋人があてがわれ、オペレータが「女性の恋人は男性であることが当然である」ように語るシーンがあります。
このオペレータの台詞が同姓を愛する方々にとっては酷いことを言っている、という認識はありました。
だったらなぜそれを言わせたのか。

この作品は男女の性別の行き来が可能になった世界を描いています。
その世界ではセクシュアリティに特に疑問を持たない、無関心な人たちは「男(女)が好きなら女(男)になれば良いのでは?」と考える人が比較的多いのではないか、と考えていました。

そして物語が進む中で主人公はヒロインをはじめとして性の越境を行った人に触れる中で、こうした無関心から来る考え方にすこしづつ疑問を抱いていき、最終的には多様な生き方に寛容な考えを持たせていくつもりでおりました。
ここの描写は背景世界の説明の一部であり、主人公の変化を描く過程の一部でした。

問題となった描写は作品世界内の個人の発言でしか無いこともあるし、それが現実世界において好ましくない意見だとしてもいずれ作品総体としては否定されていく意見であるので、最終的には問題なくなると判断していたのです。

また第5話執筆前後でのマンガボックス編集部との打ち合わせにおいても、ここは問題になるまいという判断がされていました。
しかし、単行本化に当たって問題となって浮上してきたわけです。

単行本化の段階で問題となるとわかっていれば、背景世界の提示はそれが必要となる直前まで後回しにすることもできましたし、連載中の打ち合わせの中で回避することもできたはずです。
この出版担当の講談社-編集担当のマンガボックス-著者の3者の連携がきちんと取れていなかったことが今回の連載終了に至ったいちばん大きな原因であるように思われます。

結果、本来作中で肯定する意図のない(むしろ後に否定したい)部分が問題となって発行中止となるのは無念でなりません。


転載終わり。


ということで、え? これが問題になって、連載が打ち切りになるのか??? ちょっとびっくりした。

しかも「クレームが来るかもしれない」と? 実際、クレームが来たわけではないのに、「来るかもしれないから回避したい」と打ち切り?

この件で、性的マイノリティの人も困っているらしい。いかにも自分たちが、この漫画の打ち切りを望んでいるかのように扱われたことが。

「マイノリティの人たちって、ちょっとしたことで大騒ぎして、傷ついた、差別されたと抗議するんだな、当たらず障らず・・・だな。怖いな。こういった人とは付きあわないでおこう。いつ自分が悪者に仕立て上げられるか分からない」と、マイノリティを敬遠する者も出てくるのでは、と。

作り手も、キャラクターに何か「問題発言」させることができなくなるな。
この打ち切り問題に疑問を感じた。これって表現の自由への侵害につながるのでは、と。

作者も以下のように発言されている。
一部転載。

作者という立場から一歩引いた立場にで考えると、講談社さんが萎縮する事にも同情的な気持ちにもなってきています。
というのは最近、特に渋谷区が同性カップルをサポートする条例を出して以降、性的マイノリティに関わる言説が過激になってきているようなそんな空気を感じるからです。

先週渋谷区で同性カップル支援を批判するデモがあったと聞いて驚きました。
批判的な考えの人がいることは判っていましたが、デモという行動をとるほどに拒絶感が強いのか、と。
性的マイノリティへの世間の理解は確実に進んでいると感じるのですが、同時にこれに関わる対立も深く、対立と共に支援する人も、反発する人も発する言葉が強くなっている気がします。
編集さんの一人は「タイミングが悪かった」とも仰ってました。

こんな空気の中では、出版社もこの話題に安易に触れることは危険だ、関わらないでおこうという判断も出てきてしまうのかなあ…と。

転載終わり。

騒いだもの勝ち、抗議したもの勝ちってことかな。
そうすれば相手を委縮させ、黙らせることができる。

権力者の圧力も怖いけど、デモを結成できれば市民もこういった圧力をかけることができるのだな。
で、発信する側は「当たらず障らず」になっていく。
表現の自由は憲法で保障されているというのに。

ところで・・・
「同性カップル支援」って、要するに「法的に結婚を認めてほしい」「一般の夫婦と同じ権利が欲しい」ということなのかな?

私はこの辺はよく分からない。同棲じゃダメなのか、と。法的な何か(扶養控除、扶養手当みたいなもの?)が欲しいのか。

結婚制度そのものを否定するフェミニストの人もいるし(田嶋陽子氏とか)・・・

ま、でも保守派の人の意見「結婚制度は、その夫婦の間に生まれた子どもを守るための制度。夫婦のための制度ではないし、妻の権利を守るための制度でもない」という話を聞き、「なるほど」と納得してしまった。

結婚というシステムは、「子どもという本当の弱者」を守るための制度。
だから、子どもの世話をする妻(あるいは夫)が働けない場合を考慮し、家の経済を担当する夫(あるいは妻)に扶養義務を負わせ、不貞も働かないよう、縛りをくわえている(不倫した場合、その不倫相手を訴えることができ、慰謝料を請求できる)のだろう。もし不倫されて、離婚されたら、それまで子どもの世話をし、経済力を手放した妻(または夫)が大変困ることになる。安心して子育てできない。

つまり、結婚は「義務を負わせ、子どもを責任もって育てさせるようにするシステム」と捉えていいだろう。

子どもを持つことがなく、扶養義務も発生しない場合、一般の夫婦と同じ「権利」って必要なのか? と。
まあ、子どもを持たない夫婦だっているけれど、こちらは「持つ可能性がある」ということで。

同性カップルはどうしたって生物上、子どもは持てないだろう。
いや、女性同士のカップルであれば、ほかの人の精子を使って、子どもを産むことができる、子どもは持てる、と言うのかもしれないが。
ならば男性同士のカップルだって、ほかの人の卵子を使い、ほかの人に産んでもらえば、子どもは持てる・・・(日本は代理母は認められていないけど、実際は、向井亜紀さんなど、代理母を使って子どもを持つ人もいる)

同性カップルは、そこまでして子どもを持ちたい、子どもを持つ権利がある、と考えているのだろうか。

そういえば、他人の精子で生まれた子ども自身、遺伝的につながる親を知りたい、会ってみたい、という人がわりといる。けど、誰なのかは分からない、知らされない場合もけっこうあり、子どもが遺伝上つながりのある親を知る権利が阻害されている。

けど、子どもの知る権利を尊重するようになったら、精子提供者はいなくなるだろうし。(日本では、赤の他人に対し、匿名で卵子提供することはできないよね?)

難しい。誰の権利が尊重されるべきか、同等の権利とは何か? ということで。


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こんなの家庭じゃない?>山口智子と唐沢寿明 [人生・生き方・生活・人間関係]

前のほうで「夫婦円満」をテーマに山口智子の記事をネタにしたけど・・・人によっては「まったく参考にならない」「普通はこんなに自由にできない」「夫婦生活、結婚生活とは言えない」「主婦はこんな気楽じゃない」「ママゴトもいいところ」とカチンとくるところもあるようだ。

山口智子のインタビュー記事http://news.mynavi.jp/news/2015/04/02/003/より一部抜粋

【「凝ってあらゆる料理を作った」という手料理で、まるで「毎日が誕生日会」のように連日知人を招いていたことも。ところが、5年ほど経過した頃に「プチッと燃え尽きちゃって」。今は週に1~2回程度で、ほとんど料理をすることはなくなったという。】

転載終わり。

たしかに普通は『プチっと燃え尽きたから』といって、料理をほとんどしないですませられる、それが許される人というのは、まあいないだろう。唐沢さんはそれを許しているが、一般の男性は許さないだろうし、もし子供でもいれば、完全にアウトだ。

そこでちょっと考えさせられた。

結局、「運」も大きいかもしれない。伴侶が『唐沢さんだから』というのも大きいかもしれない。ほかの男性なら許さないかもしれない。

ま、料理は、別に女性の仕事でもないし、男性がやってもいいのだし、やらないですむなら、やらなくてもいい。
家庭料理を求めて結婚したわけでもないのだろう。

唐沢さんも毎日、家に帰ってくるわけではないだろうし、家庭料理にこだわらない、外食OK、むしろプロが作ってくれた料理の方が美味しいだろうし、毎日外食できる経済的余裕もある。

山口さん自身かなり稼げる人だ。一時期、テレビ界からは姿を消したけど、仕事をしようと思えば、引く手あまた。唐沢さんに養ってもらっているわけではない。

すれ違い、一緒にいる時間はほとんどない、結婚した意味がない、ということで離婚した人もけっこういるけれど、あまり顔を合わせないからこそ、一緒にいる時を大切にできる、ということで夫婦円満を保てる場合もある。

そこに家庭料理があるかどうかも関係ないのだろう。

これはもう人それぞれ、相性の問題かも。
相性がいい相手と結婚できた、というのも「運」かもしれない。(相性がいいかどうか、付きあっているときには分からないことも多い。一緒に生活して初めて分かるのだろうから)

幸福感を持てるかどうか、気の持ちよう、プラスに考えることができるか、マイナスに捉えてしまうか・・・だけど「運」も作用するかも、と思ってしまった。

山口さんには子どもがいない、あえて持たなかったのか、それとも欲しかったけど叶わなかったのかは分からない。
けど子どもがいない自由気ままを満喫し(子どもがいないことをプラスに捉えた生き方)、幸せを追求する生き方もあっていいのだ。

しかし、こういった「子どもがいない既婚者」または「独身者、未婚者」は、「ちょっと不幸であってほしい」「幸せアピールしてもウソっぽい」と思う人が、いたりするようだ。
自由気まま=苦労してない=いずれ、そのツケがくるに決まっている=老後は寂しい・・・と、こんな図式を描いているんじゃないだろうか。

そこで、ホリエモンの「今を生きよう」「将来のことをあれこれ心配するのは無駄」「将来どうなるか、誰にも分からないのだから」「将来の不安を払拭しようと、今を我慢するのはやめたほうがいい」を思い出す。

山口さんも「無理せず、気持ちよく過ごしている=今を生きている」のだろう。それが「できる立場にいる」のだから、それでいいのだ。

普通は「我慢する」「無理せずなんて気楽なこと言ってられない」「みんな、耐えてがんばっているんだ」ということで、自由気ままな人に反感を持ってしまいがちだけど。

ただ我慢したからと言って、その先、幸せになれる、または将来安定が得られる、とは限らない。将来のことは分からない。

もち、我慢しないと今の生活が成り立たないのであれば、我慢するしかない。
我慢しないでやっていけるなんて、よほど運のいい人、恵まれている人。そんな人が幸せアピールしてもムカつくだけ・・・というのは、私もよく分かる^^;

けど「ガマン」はできるだけ回避しよう、我慢は美徳でも何でもない、我慢したからと言って幸せになるとは限らない。

しかし幸せになると信じて何かを我慢するのはあり、とは思う。

じゃなきゃ「ガマン」なんてしていられないもの。けど、しないでいいガマンなら、することないと思う。逃げられるなら逃げろ、と。しないでいい方法があるなら、そうしてもいいのでは、と。

プチッときて料理をしなくなった山口さん、逆にガマンして料理していたら、ストレスたまり、ダンナにもそのストレスをぶつけ、結婚生活は破たんしていたかもしれない。
世間の価値観に合わせることなどないのだ。

世間の価値観=家庭をもったからには家庭料理があるべき、外食ばかりなんて偏るし、愛が感じられない、そんなの家庭じゃない、子どもがいないと寂しい・・・なんだろうな。

たぶん、それは子育てがいかに大変か、とも言える。
でも、その「大変である先」には幸せがある。
それはそうなのだろうけど、逆に「幸せである」と思わないといけない空気をそこに感じる。
不幸だと思ってはいけない、思ったら人間失格みたいな・・・

だから「我慢しないで自由気ままに生きている人」は、世間的にちょっと「不幸であってほしい」のかもしれない。

まあ、「子供のこと」は置いておいて、「家庭料理」について。
家庭料理のない結婚生活なんてありえない、と思っている人のほうが断然多いだろうから、山口さんはほんとうにレアケース、ということは分かる^^;


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人間関係について(前回の補足) [人生・生き方・生活・人間関係]

夫婦関係、しいては人間関係について考えてしまう。
ま、夫婦関係って、友人や恋人みたいに、「嫌になったら別れる」ことが、そう簡単にできない、かといって、親子関係のように「よほどの場合をのぞき、別れることがほぼ不可能」というわけでもない。

前回の記事で、「人間関係を維持するにおいて、何が重要か」で

○対等意識が持てる(相手を見下さない、尊重できる)
○価値観にさほど違いがない(相手の価値観を受け入れられる、理解できる、許容できる)
○コミュニケーションができているか(相手に関心がある、共通の話題、趣味がある)・・・になるのかな。

と3点挙げて・・・
その中の対等意識について、

見下すと(=相手を軽く見ると)、相手に対し、平気で人格否定したり、馬鹿にしたり、人間扱いしなくなる。
よって「礼儀」が全くなくなってしまう。

通常の人間関係なら破たんしかねないことをやらかしてしまう。
それを許すのが家族だ、という人もいるけれど。
言葉の暴力、言葉の刃って、けっこう威力あるんだよ。相手の心を破壊し、修復できないくらいに。

・・・と書いたことについて、補足。

言葉の暴力を放った場合。

まず放ったという自覚がない・・・相当、相手を見下している。人間扱いをしていない。
と私は判断する。

誰に対しても、言葉の暴力を放ってます、上司にも放ってます、っていう人は、仕事もうまくいってないはずだし、生活が破たんしているはず。
だから「言葉の暴力」がどういうものだかは分かっているはず。、つまり、暴言をガマンしようと思えばできているということだ。
なのに、それを放ち、放ったことさえ自覚してない、ということは、相手をまるで人間扱いしていない、どうでもいい存在ということ。

この場合、すぐに離れたほうがいい。(本物の暴力行為であれば、それは犯罪であり、論外)
どうでもいい存在は、単なるストレスのはけ口になってしまいがち。

相手に「相当、失礼なこと=暴言」を放ったことを自覚し、しかし、罪悪感がない場合、それもやっぱり相手を相当見下している。
罪悪感なさそうだな、と思ったら、やはり離れたほうがいい、と思う。

これはもう修復不可能、というか、相手に関係修復の意思がないと見ていい。
修復の意思のない人と関係を結ぶのは困難だ。

罪悪感がある場合だけ、修復の余地がある。

友人や恋人関係であれば、関係破たんさせたくない場合、それなりの努力をするけど、そう簡単に別れることができない家族関係になると、けっこう平気で「相手を見下す言動」をしてしまうものかもしれない。

親子関係の場合、子どもが未成年の場合、どうしたって上下関係になり、対等意識など持てないけれど、それでも最低限の対等意識は必要だろうと思ってしまう。

いじめ問題でも、この「対等意識があるか、ないか」って大事だよな、と。
ま、いじめる側は、相手を見下している。
対し、いじめられる側は、自分を下位に置いて場合がけっこう多いかも。

見下されないようにするには、どうしたらいいのか。

いじめの場合、やられたら、それなりの報復をする、これが一番手っ取り早いかも。
報復ができれば、相手は見下すことはない。

もちろん、相手がまた仕返すことはあるが、その時には「イジメという見下し行為」ではなく、「復讐」という対等行為になる。もちろん、復讐など、お門違いもいいところであるが。

そもそも復讐をするような相手であれば、話し合いなども通じるはずもなく、相手ととことん戦うか、相手から逃げるしかない気がする。

逃げることが出来なきゃ戦うしかない。
ま、でも、戦うというエネルギーを使うより、逃げれるものなら逃げたほうがいい(距離をとる)
戦えば、相手は復讐をし、憎悪の連鎖が始まってしまうかもしれないし。

その前に話が通じるのであれば、話し合いで解決したほうがいいに決まっているが・・・話し合いで見下し行為が止むのであれば、そもそも相手はさほど見下していない。話を聞いてくれる、話し合いに応じてくれるということは、尊重してくれている、ということだ。

対等意識=相手を見下さない、相手から見下しを受けたら、相手から逃げる(縁を切る)、あるいは戦って相手に分かってもらう、対等であることを主張する、

ということが人間関係を結ぶのに大切な・・・というより自分を守るのに大切なこと、なのかもしれない。

見下し続けられると、心が殺される=人生台無しにされてしまうから。
ただ、それが家族間だと逃げ場がない。
家族間の人間関係がこじれると厄介だよな・・・

いや、でも理想はこれだなあ・・・山口智子さんのもうひとつの記事http://news.mynavi.jp/news/2014/11/28/110/より一部転載。
「幸せの時間は、大好きな唐沢寿明さんとご飯を食べているとき」

「今この瞬間から未来が続くと思っているので、『人よりも最高のものにするぞ』と思いながら生きているかもしれません。世界で一番幸せだと思って生きてますよ」と回答。
さらに「幸せの実感は?」というMCの問いに「(夫の)唐沢寿明さんと一緒にご飯を食べている時とか、毎日美味しく食べている時です。ちょっとしたことが大事で、毎日楽しく幸せに美味しいと思いながら大好きな方と食べるご飯は最高です」と来年で結婚20年を迎える現在も幸せオーラを漂わせていた。

転載終わり。

ま、食事なんてさっさと終わらせたい、会話も別にない、っていう夫婦もかなり多そうだし、忙しくてそんな余裕ないという人もいるんだろうな。

山口さん唐沢さん夫妻の生活を『ママゴトだ』『子供がいないから余裕あるだけ』という人もいるだろうけど、幸せなら「ママゴト」大いに結構。子供を持つ持たないは自由だし。


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夫婦円満の秘訣・・・と補足・発達障害について [人生・生き方・生活・人間関係]

山口智子、唐沢寿明との生活
http://www.msn.com/ja-jp/news/entertainment/%e5%b1%b1%e5%8f%a3%e6%99%ba%e5%ad%90%e3%80%81%e5%a4%ab%ef%bd%a5%e5%94%90%e6%b2%a2%e5%af%bf%e6%98%8e%e3%81%a8%e3%81%ae%e5%86%86%e6%ba%80%e3%81%ae%e7%a7%98%e8%a8%a3%e3%81%af%e3%80%8c%e6%af%8e%e6%99%a9%e6%89%8b%e3%82%92%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%84%e3%81%a7%e5%af%9d%e3%82%8b%e3%80%8d/ar-AAajk1W?ocid=LENDHP#page=2

一部転載。

日常的な夫婦喧嘩は「しない」。「唐沢さんは人の話とか聞いてない」ことから、喧嘩に発展することがないのだそう。

国分太一からの「夫婦円満の秘訣は?」という質問には、「それはやっぱり、手をつないで寝るとか」「毎晩」と即答。

「うちに帰って唐沢さんと遊んでいる時とかは、自分にとってのオフかも」と告白。「なかなか一緒にいる時間はないから、会う時はできるだけくっついていようと私は思うんです。だから、本当にくっついていたくて」「抱っこ~! 抱っこ~! みたいな」というアツアツぶりだが、唐沢はそんなスキンシップに無反応。それを聞いた松岡昌宏が、かつて唐沢と酒を飲んだ時に「あー! 山口に会いてぇ!」と言っていたことを打ち明けると、山口は「どうだろう」「うちでは絶対に言わない」と怪しみながらも、「うれしいっす」と素直に喜んでいた。

転載終わり。

ほお、唐沢さん、名前ではなく「山口」って呼んでいるのか・・・・^^;
いや、なんかいいよね。

山口智子ってドラマ上では「あねさん」って感じだったけど、甘えんぼさんなんだな。ま、自分はマネできないが。相手はウザいだろう、って思っちゃうので。けど、そう思わず、甘えることができる人って、自分にすごく自信をもっているのだろう。相手は受け入れてくれる、嫌がっていないと思わなきゃ、できないもんな^^;

それはそれとして・・・
うちの静也と理沙夫婦とは違う「夫婦ぶり」(毎晩、手をつないで寝る・・・最初の恋人時代ならともかく、ウザくないのか? とは思うが)だけど、共通点は「夫婦、一緒にいる時間を楽しんでいる、大切にしている」ってところかな。

でも、子どもがいると、そうもいかなくなるのかも?
やっぱ子どもができれば「パパとママ」になってしまうし。(山口、唐沢夫妻は子どもがいない)

夫婦円満の秘訣について・・・というか、夫婦に限らず、友人など人間関係すべてに言えるのかもしれないけど・・・

相手に対し・・・
対等意識が持てる(相手を見下さない、尊重できる)
価値観にさほど違いがない(相手の価値観を受け入れられる、理解できる、許容できる)
コミュニケーションができているか(相手に関心がある、共通の話題、趣味がある)・・・になるのかな。

話が合うかどうかも重要かも?
反対に、家庭の問題以外、話が合わないのはさびしい気もする。
いや、昔の夫婦はそれが当たり前のところあったけど。

そりゃ、楽しいだけじゃないだろうけど、楽しい部分がまるでない、となると一緒に生活していて辛い気がする。
ただ、だからといって不幸ともかぎらない・・・かもしれないが。

興味を持つところに接点がないと、休日(自分が自由に使える時間)を一緒に過ごすのがつらくなる。
会話もなくなる。会話も面倒になる。
一緒に過ごす時間は食事の時だけ。その食事もさっさと済ませたい。

で、相手がいつも不機嫌だったり、すぐに切れる性格だと、当たらず障らず、距離を置いて、できるだけ接触を避ける、という事態になり、コミュニケーションをほとんどとらない、相手に無関心となっていき・・・

離婚して生活が変わるのも面倒だから夫婦を続ける、という感じになる場合もけっこうありそうだ・・・

山口さん唐沢さん夫婦かのような「仲良しぶり」はレアなケースだろう。(いや、子どもがいない夫婦はそうでもないのかな)

対等意識というのも大切だな。
つまり「見下さない」ということ。

見下すと(相手を軽く見ると)、相手に対し、平気で人格否定したり、馬鹿にしたり、人間扱いしなくなる。
よって「礼儀」が全くなくなってしまう。
通常の人間関係なら破たんしかねないことをやらかしてしまう。

それを許すのが家族だ、という人もいるけれど。

言葉の暴力、言葉の刃って、けっこう威力あるんだよ。相手の心を破壊し、修復できないくらいに。

・・・・・・・・・・・
さて、ここからは全く別なお話だけど、前回話題にしたことについての補足。
(ちょっと疑問に感じたことがあるので)

漫画家の坂本未明さんが、自ら発達障害だと産経新聞インタビュー記事で告白していたのだけど・・・(だから飛行機内で泣いた赤ちゃんの声に我慢ができず、パニックを起こしたという話)

発達障害の定義って何だろう? と思ってしまった。
作家の市川拓司氏もそうだと自ら告白しているのだけど・・・

私は発達障害を、「コミュニケーション障害、相手の気持ちが全く分からない、読み取れない、よって人間関係がうまくいかず、職に就けない、長続きしない、生活に難儀している」と捉えている。

しかし、坂本未明氏も市川拓司氏も「成功者」だ。
坂本未明氏はテレビのコメンテーターとして見たことがある。漫画も売れて、バンドもやって、2度目の結婚をされて・・・
う~ん、これのどこが発達障害者?

コミュニケーションがうまくとれない人が、テレビでコメンテーターをし、アシスタントを使って、漫画を描き、編集者と打ち合わせをし、恋愛してお付き合いをし結婚までこぎつけることができる?

結婚すれば、相手方の親族とのおつきあいもあるだろう。
バンド活動では仲間たちとのアンサンブルになるのだから、当然、仲間たちと交流し、音楽について打ち合わせ、話し合いもするだろうし・・・

人間関係をうまく築けない人に、パニックを起こし、すぐに切れる人に、雇われている者=アシスタントがついていく? 

人の気持ちが分からない人が、物語を描き、それが人々の共感を得て、人気作品を作れる?

(私は坂本さんの漫画を読んだことがないので分からないが、漫画家としてずっとやってこれたということは、読者の人気を得て、本が売れていた、ということだ。漫画家であり続けてきた、ということはそれができたということだ)

ちなみに市川拓司氏も同様。結婚し、お子さんもいる。

コミュニケーションをとるのが苦手、性分である、というのと、障害である、というのと違いはどこにある?
障害そのものの定義も分からなくなる。

発達障害というのは、人とコミュニケーションをとって付き合うことに困難が伴うので、仕事につくことはもちろん、結婚も難しい、人とつきあうことが怖い・・・公の支援が欲しい、障害だと理解してほしいと本当に苦しんでいる人から見たら、噴飯ものでは、と思った。

坂本未明氏や市川拓司氏が発達障害であるならば、私もそうだ。おそらく3分の一の人は「発達障害」ではないだろうか。



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