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介護をする側の本音は?(相模原障害者施設での殺傷事件について) [社会・ニュース]

相模原障害者施設での殺傷事件。産経新聞8月26日付の記事にて。

植松聖容疑者が書いた手紙「保護者の疲れ切った顔、施設職員の生気に欠けた顔」という文言について、被害者の親は「保護者や職員の実態はそうではない」と語った、という。

このことについて、誤解を招くかもしれないが・・・こんなことを思った。障害者を世話する者が疲れ果てることはないのだろうか? ならばなぜ親は施設へ預けたのだろう? 家族の手に負えず、大変だから預けるのでは? 

また介護職員の給料などを見ると、職員は安く使われている印象を持つ。大変な仕事に見合う給料が支払われているとは思えない。

「保護者(家族)や施設職員の、疲れ切った・生気に欠けた顔」という文言を否定するこの親御さんに違和感を持った。
職員は、親御さんがいる時は「疲れ切った生気に欠けた顔」など見せないだろう。

介護は疲れ果てるほどに大変な仕事では? と正直思う。
だから親は施設へ我が子を預け、お世話になるのだろう。

ツイッターで調べれば・・・介護職員は疲れ果て、安い給料に「やってられなくなる」と本音を漏らしている人もけっこういる。
介護が大変でないのなら、生気を奪い取られるほど疲れ果てることがないのであれば、世話にやりがいを見出せるのであれば、そもそも施設はいらないだろう。家族が面倒をみればいい。
でも、できないから施設を頼るのだろう。

「介護が大変だ、疲れる」というと、障害者を傷つける、そんなことを言ってはいけないし、思ってもいけない、介護者は耐えるべき、というのだろうか?
いや、そもそも「耐える」なんて言ってはいけない言葉? 障害者への差別につながる?

じゃあ、親や家族が面倒をみればいいと、ますます思う。

けど、できない、やっぱり耐えられない。家族は疲れ果てる。
これが現実だ。

さて、私の考えや疑問は植松容疑者と同じ差別思考・差別発言だろうか。
でも、きれいごとでは世の中、回っていかない。
※リベラルがいまいち支持を得られないのは、きれいごとばかり言うからだろう。

障害者問題に対し、障害者視点でのみ語り、介護側の視点を無視するその風潮が、介護する側の権利を阻害しているのでは、と思う。

「障害者の話は大変ではない障害者の世話が大変と思うことは差別だ」「やりがいのある聖なる仕事だ」は、「介護者の給料は低くて良い」につながるのではないか。

「介護は疲れ果てる」・・・そう正直な気持ちを言えなくなれば、それは障碍者への差別につながると批判されるなら、ますます介護をする者は追い込まれていくだろう。家族が面倒をみろ、という風潮になっていくかも。

きれいごとは害悪である、とすら思う。

・・・・・・
ツイッターで見かけた発言。
https://twitter.com/taboo_berry/status/758189383472193536より転載

【自分は植松さんの行動を肯定する気は全くないけど、同情はする。
実際、私も重度自閉症の弟を何度も殺しそうになった。
親が何度も蹴り飛ばされ、あざだらけになって…
それでもこっちがやり返したら虐待になり差別になる。
あんなところにいたら気が狂う】

転載終わり。

ほかにもいろいろある。
親はそうそう書き込まないだろうが、兄弟姉妹は本音を言う。
#きょうだい児 で検索をかければ、本音が分かる。

でも誰が彼らを責められる?
人間そんなに強くもない。聖人にもなれない。

障碍者問題はきれいごとでは片づかない。
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