子どもの日に因んで>家族至上主義 家族について [人生・生き方・生活・人間関係]
家族は絶対に愛をもたらしてくれるわけではないんだよな。
虐待など家族間の犯罪事件はよく耳にするし、前回、話題にした生活保護受給者夫婦による児童手当目立てに子どもを7人作り、虐待し殺害した事件は本当に酷いと思った。
↓こんな本も話題になっているようだ。
下重暁子『家族という病』
『家族ほどしんどいものはない』という煽り文句で宣伝されており・・・
『これまで神聖化されてきた「家族」を斬る』という内容らしい。
『日本人の多くが一家団欒という呪縛にとらわれているが、「家族」はそれほどすばらしいものなのか? 実際には家族がらみの事件やトラブルは挙げればキリがない』
と書かれていて、言われてみれば、たしかにそうかも、とちょっと考えさせられた。
うちの祖母は、19歳で結婚をし、舅姑と同居し、4人の子どもを育て、3世帯家族で暮らしていた。
3世帯同居、家族賑やか・・・幸せにうつるが、実際は舅姑で苦労し、4人の子育てが終わり、舅姑の面倒を見終え、ようやく自分の時間が持てたのは、60代。それまでずっと家族の面倒を見るために生きてきた。
で、60代から自分のために、趣味に生きた。が、人生の多くは家族のために捧げられた。
もちろん、子どもたちは母親(祖母)思いだ。
しかし、認知症になり、子どもたちはそれぞれ家庭を持ち、面倒はとても見きれないので、施設のお世話になって、人生を終えた。介護は大変だ。施設が利用できるのであれば、利用したほうがいいと私も思う。
幸せかどうか・・・これは本人が感じることだが、
傍目から見た場合・・・第3者からみたら、4人の子どもを立派に育て、老後は趣味に生きることができて、幸福に見えるだろう。
家族のために自分の時間とエネルギーのほとんどをささげ、家族のために生きた、本当に立派な人生だと思う。
じゃあ、こういう人生、あなたも送りたいですか? となると、「いいえ」という人がわりといるのでは、と想像する。少なくとも私は無理だ。
家族に対し、どれくらいのエネルギーを割けるか? なんて言うと、「冷たい」と思われそうだが、家庭(子ども)を持ったら、ほぼ100パーセント家族(子ども)のために身を捧げないといけないような空気が日本にはまだある気がする。特に女性は。
まあ、男性も今では「イクメン」という言葉も出てきて、男性も育児に参加せよという空気になってきてはいるが、男性の中にも『激務から疲れて帰ってきているのに、子どもの相手はしんどい』という人もけっこういるのでは、とも思う。
けど、一生懸命やったとしても・・・認めてもらえない場合もあったりする。
「それくらい当然でしょ」と。
それはママにもパパにも・・・「親として当然」という言葉が付きまとう。
んで、虐待や犯罪までいかなくても、世には「毒母」という言葉があったり・・・
子どもは子どもで親にいろいろ言いたいことあるだろうし、実際、酷い親もいるだろうけど、親にしてみれば、育ててあげた子どもから「毒扱い」されるのもしんどいだろう。(娘と母の関係)
『育ててあげた』という言葉は語弊があるかもしれないけど、子どもを育てるのはやっぱり大変だ。あまりにエネルギーがかかり、かなり他を犠牲にするから、親にしてみれば、子どもにいろいろ期待してしまうのも仕方ないかもしれない。
けど、ま、子どもからしてみれば「勝手に産んだんだろ」「期待されても困る」「自分の夢を押し付けるな」なのだろう。親のプレッシャーに押しつぶされる子どももいたり、それはそれでしんどいだろう。
『オレオレ詐欺、母さん助けて詐欺』を見ても・・・これは息子と母親(父親もひっかかることがあるようだが)の関係が希薄だからこそ、ひっかかってしまうのでは? と思う。
これだけニュースになっているのだから、息子側から親に『気をつけるように』という話はないのか?・・・そういったコミュニケーションはとってないのか? それでもひっかかってしまうのか、と不思議に思う。
詐欺にひっかかるということは、親は子供を助けようとした、ということだから、親は親なりに子どもを大切に思っているということだろう。だけど、親子の関係性が築けていないような気がする。
息子は結婚し、別の家庭をもつと、親との関係はうすくなるのかもしれない。
こういったことを思うと、あれだけのエネルギーをかけて子どもを育てても、それくらいの関係性しか築けないのだとしたらなんだか侘しいな、と。
いや、子どもは子どもの言い分もあるのだろうし、親は「子どもに何かしてもらおうとして子どもを育てるわけではない」のだろう。損得勘定なしの崇高な行為だと思う。
ものすごく立派なことだ。
しかし、立派過ぎて自分には無理、と思う人もいるかもしれない。それは割と多いかも。こういったことも少子化の理由のひとつでは、と思ったりする。
「毒扱い」されたり、子育ては本当に難しそうだ。
人間関係をうまく築けない人には、子育ても無理なのでは、とすら思ってしまう。
そして・・・もしも「発達障害」など、軽い障害を持って生まれてしまえば、公の支援を受けられるかどうかも分からない、周囲の理解を得られにくい。どう育てたらいいか分からない。子どもも大変だが親も大変そうだ。いじめや不登校、ニートなどなど問題も山積み・・・
子育ては、上手くいく場合もあるだろうけど、上手くいかない場合も結構ありそうだ。中には深刻な状況に陥る家族もいるだろう。
こんな記事をみつけた。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2991884&media_id=136&from=news_searchより以下転載
・・・・・・・・・
「もういいよっ、どうせ聞く気ないんでしょ、何度言ったって無駄なんだから! もう勝手にしなよ! だいたいいつもさ……そもそも自分の事に責任持ちなよ……」
あぁ、今日は朝からやってしまった。
これが母から子への苛立ちに満ちた言葉のスタートだ。そして理詰めの追及が延々と続く。
■母が子を正論で追い込む
子どもを大人が正論で追い込むのは実に簡単だ。圧倒的に大人が強い。
正論は人を追い込みすぎること、時に現実的でないことを知っているから、通常の人間関係でそれを振りかざさないよう、結構気をつける。でも、子ども相手にこれが止まらない。
自分の満足行くところまで徹底的に言葉で追い込み、子どもが理解できる範囲はとっくに超え何の効果も生まない……母親自身、こんなアプローチが最悪なのは100%自覚している。まったく大人気ない。
そんな妻を目撃して、「これはヤバイ、どうなってるんだ?」と当惑し、逃げるように出勤する夫の皆さんもきっと多いだろう。
これが子どもの日常だとしたらきつい。逃げ場がない。だけど、親は実に簡単にここに落っこちる。
■乳児のうちはこうならない ―― 身体的イライラ
子どもが0~2才くらいの頃は、耐えず眠いし、自分の時間はゼロで、家事はまったくはかどらない。そういう「身体的イライラ」に支配されるものだ。
でも、言葉で子どもを追い込むような事態には陥らないで済む。
この年頃の子どもは、明らかに小さくて弱々しく、大人がいなければとても生命を維持できそうもない。自分は「完全な保護者」であり、子どもと「対等」ではないので、そもそもイライラをぶつける対象にすらならないのだ。
苛立ちの矛先は、自分自身や夫、周りの大人に向けられ、夫婦関係、祖父母関係の問題として処理されていく。
■言葉を喋るようになったら注意せよ!
乳児の母であるうちは到底信じられないかもしれないが、これがいつの間にか変わってくるのだ。
私も息子が赤ちゃん然としている頃は、小さい子どもを言葉で追い込むお母さんを見かけると、「余裕無いのかなぁ」くらいに思っていた。まさか自分が、その手の態度を取るようになるとは思いもせずに……。
変化は「言葉」の発達とともにやってくる。
■対等な人間関係 ―― 言語的イライラ
不思議なもので、子どもが言葉を喋るようになり、最低限のやりとりが成立するようになると、急に「人格」を感じ始める。
親は、言語という共通ツールを得た途端、守る‐守られる親子関係を、急激に「人対人」の対等な人間関係に昇格させてしまうのだ。
それまでは、「保護者である私の問題/責任」だったことが、「あなた自身の問題/責任」にすりかわる。
ちょうど、基本的生活習慣を身につけさせるので必死な時期。繰り返し失敗して、汚れて、泣いて、ぐずって……どんなに丁寧にかみ砕いてアプローチしたって、小さな習慣のひとつひとつは、そう簡単には身につかない。
そのうちイライラがつのり、「なぜやらないの」「さっき同じこと言ったよね」……そんな言葉が「対等」になった子どもに直接投げかけられる。「言語的イライラ」の始まりだ。
■そこに「社会」はない ―― 危険な力関係
さらにいけないことに、人対人の関係に昇格したのに、そこには完全に「社会」が欠如している。多くの乳幼児育児中の母子の関係は、あまりに偏っていて特殊だ。
(1)批判されない ―― 家庭に他人の目はない。
(2)関係が完全に固定 ―― 母子は常に一緒で離れられない。
(3)反論・反撃されない ―― 母子の言語能力と腕力に圧倒的な差がある。
(4)拒絶・逃走されない ―― 幼い子の母親に対する信頼は恐ろしいほど絶対的。
こんな、圧倒的な力の差と閉じた関係を、実際の社会で経験したことがあるだろうか。こんな条件下で「うまくいかないことばかり」続いたら、果たして相手に対し「正しい態度」で接し続けることができるだろうか。
人はそこまで強くない、と、私は思う。
あふれ出る言葉に歯止めが効かない……。良くないと思っていても繰り返す……。
そんな負の循環をして当然の、あまりに偏った構造がそこにある。
■「たまに」で済んでいるうちに……
最初は「たまに」で、済む。たまに異常に長く苛立った説教をしてしまうくらいなら、まぁ、これはもう、人間感情に波がありますから母もね……たまにはね……、でいいのかな、とも思う。
でも、それが「いつも」になり、果ては手が出る恐怖政治につながらないと、誰が自信を持って言えるだろうか。ニュースで見て「ありえない」と思っているような結末が、意外と自分のすぐそばに控えているかもしれない。
全力で踏みとどまらなければいけないラインがある。
■反省より、危険の自覚からスタート
あぁ、またやっちゃったな、自分はダメだな……と後悔と反省を繰り返しても、多分事態は変わらない。「怒鳴る前に深呼吸」の魔法が効くなら楽なものだ。
むしろ「歯止めがきかなくて当然」な厳しい条件下に自分がいるという自覚からスタートした方がいい。
自分自身の「心」が駄目なのではなく、自分が「極めて危険な構造」のど真ん中にいるだけなのだ。それをはっきり自覚して初めて、阻止する対策が取れる。
■何ができる?
この「危険な構造」にゆらぎを与えることを、抑止力にできないだろうか。
子どもと離れる時間を作る。乳幼児の遊びスペースに出かける。託児付きの講座に通う。誰かにヘルプに来てもらう。……そういう「いつもの母子関係」に何でもいいから「変化」を加える。
今朝、やっちゃったなぁと思った私は、いつものルールを変えてみた。
学童クラブに息子を送ったあと、気持ちをひきずりそうだったから、いつもなら家でする仕事をカフェでやることにした。
隣に他人がいて、「充電いいですか?」と声をかける人がいて、「今打ち合わせ中なんで」と電話で嘘の言い訳をしている人がいて……そういう普通の「社会」を肌で感じると、いかに自分と子どもの関係が固定的で閉鎖的で危険か、ということに気づく。
落とし穴に落ちるな、自分の帝国にするな、息子のレベルは今どこだ? 普通の人間関係ならどう表現した?……。
小さなきっかけだけれど、とりあえず、夕方は言葉で追い込まずに息子と過ごせた。
■周りは何ができる? 夫ができるアプローチ
妻の理詰めの説教が異常に見えたとき、夫が仲裁したり諭したりしても「わかってる!」できっと無駄に終わる。子どもを守ろうと妻を怒鳴りつけたり、妻と一緒に子どもを叱るのも「わかってない!」と心を閉ざすだけだろう。
そういう直球の「介入」じゃなく、むしろ必要なのは「危険な構造」からの救出作戦。母子の固定した関係を積極的に崩しにかかるのはどうだろう?
家事や子どもの相手のうち「いつもの妻の役割」を少しずつランダムに交代するだけでも、パターンが崩れ構造は少しゆらぐ。
母の怒りにさらされた子どもと戦いごっこでもして発散させるとか、「お母さん疲れてるみたいでひどく怒ってたね、今のはきつかったね、でも、○○をしなかったのはいけないことだよ」と、穏やかに気持ち受け止め係をするとか。
その後きっと自己嫌悪に陥る妻にコンビニでプリンを買ってくるとか、「ちょっとコーヒーでも飲んで来たら」と送り出すとか。
・・・・・
転載終わり。
うまく介入してくれる夫(パパ)がいてくれるといいのだけど。
実際、逃げちゃう夫(パパ)も多いかもなあ。いや、夫だってキツイもの。介入の仕方を間違えば、火の粉は自分に降りかかる。
けど、それだけ子育ては大変なのだろう。
いや、親子間のまえに夫婦間だって上手くいかない場合もけっこうあるだろう。
家族がいる=幸せ、という図式がさらに追い詰めるのかもしれない。
ほかの人たちは幸せにやっているのに、なんでうちだけ? となれば、さらにしんどくなるのかもしれない。
やはり、どのくらい家庭にエネルギーをそそぐことができるか。
家庭に何か問題が起きた時、ほぼ100パーセント注げる、それが辛くない、当然だと思うという人が家庭を持つ資格があるのかもしれない?
まあ、そんなことを考えてしまった。
虐待など家族間の犯罪事件はよく耳にするし、前回、話題にした生活保護受給者夫婦による児童手当目立てに子どもを7人作り、虐待し殺害した事件は本当に酷いと思った。
↓こんな本も話題になっているようだ。
下重暁子『家族という病』
『家族ほどしんどいものはない』という煽り文句で宣伝されており・・・
『これまで神聖化されてきた「家族」を斬る』という内容らしい。
『日本人の多くが一家団欒という呪縛にとらわれているが、「家族」はそれほどすばらしいものなのか? 実際には家族がらみの事件やトラブルは挙げればキリがない』
と書かれていて、言われてみれば、たしかにそうかも、とちょっと考えさせられた。
うちの祖母は、19歳で結婚をし、舅姑と同居し、4人の子どもを育て、3世帯家族で暮らしていた。
3世帯同居、家族賑やか・・・幸せにうつるが、実際は舅姑で苦労し、4人の子育てが終わり、舅姑の面倒を見終え、ようやく自分の時間が持てたのは、60代。それまでずっと家族の面倒を見るために生きてきた。
で、60代から自分のために、趣味に生きた。が、人生の多くは家族のために捧げられた。
もちろん、子どもたちは母親(祖母)思いだ。
しかし、認知症になり、子どもたちはそれぞれ家庭を持ち、面倒はとても見きれないので、施設のお世話になって、人生を終えた。介護は大変だ。施設が利用できるのであれば、利用したほうがいいと私も思う。
幸せかどうか・・・これは本人が感じることだが、
傍目から見た場合・・・第3者からみたら、4人の子どもを立派に育て、老後は趣味に生きることができて、幸福に見えるだろう。
家族のために自分の時間とエネルギーのほとんどをささげ、家族のために生きた、本当に立派な人生だと思う。
じゃあ、こういう人生、あなたも送りたいですか? となると、「いいえ」という人がわりといるのでは、と想像する。少なくとも私は無理だ。
家族に対し、どれくらいのエネルギーを割けるか? なんて言うと、「冷たい」と思われそうだが、家庭(子ども)を持ったら、ほぼ100パーセント家族(子ども)のために身を捧げないといけないような空気が日本にはまだある気がする。特に女性は。
まあ、男性も今では「イクメン」という言葉も出てきて、男性も育児に参加せよという空気になってきてはいるが、男性の中にも『激務から疲れて帰ってきているのに、子どもの相手はしんどい』という人もけっこういるのでは、とも思う。
けど、一生懸命やったとしても・・・認めてもらえない場合もあったりする。
「それくらい当然でしょ」と。
それはママにもパパにも・・・「親として当然」という言葉が付きまとう。
んで、虐待や犯罪までいかなくても、世には「毒母」という言葉があったり・・・
子どもは子どもで親にいろいろ言いたいことあるだろうし、実際、酷い親もいるだろうけど、親にしてみれば、育ててあげた子どもから「毒扱い」されるのもしんどいだろう。(娘と母の関係)
『育ててあげた』という言葉は語弊があるかもしれないけど、子どもを育てるのはやっぱり大変だ。あまりにエネルギーがかかり、かなり他を犠牲にするから、親にしてみれば、子どもにいろいろ期待してしまうのも仕方ないかもしれない。
けど、ま、子どもからしてみれば「勝手に産んだんだろ」「期待されても困る」「自分の夢を押し付けるな」なのだろう。親のプレッシャーに押しつぶされる子どももいたり、それはそれでしんどいだろう。
『オレオレ詐欺、母さん助けて詐欺』を見ても・・・これは息子と母親(父親もひっかかることがあるようだが)の関係が希薄だからこそ、ひっかかってしまうのでは? と思う。
これだけニュースになっているのだから、息子側から親に『気をつけるように』という話はないのか?・・・そういったコミュニケーションはとってないのか? それでもひっかかってしまうのか、と不思議に思う。
詐欺にひっかかるということは、親は子供を助けようとした、ということだから、親は親なりに子どもを大切に思っているということだろう。だけど、親子の関係性が築けていないような気がする。
息子は結婚し、別の家庭をもつと、親との関係はうすくなるのかもしれない。
こういったことを思うと、あれだけのエネルギーをかけて子どもを育てても、それくらいの関係性しか築けないのだとしたらなんだか侘しいな、と。
いや、子どもは子どもの言い分もあるのだろうし、親は「子どもに何かしてもらおうとして子どもを育てるわけではない」のだろう。損得勘定なしの崇高な行為だと思う。
ものすごく立派なことだ。
しかし、立派過ぎて自分には無理、と思う人もいるかもしれない。それは割と多いかも。こういったことも少子化の理由のひとつでは、と思ったりする。
「毒扱い」されたり、子育ては本当に難しそうだ。
人間関係をうまく築けない人には、子育ても無理なのでは、とすら思ってしまう。
そして・・・もしも「発達障害」など、軽い障害を持って生まれてしまえば、公の支援を受けられるかどうかも分からない、周囲の理解を得られにくい。どう育てたらいいか分からない。子どもも大変だが親も大変そうだ。いじめや不登校、ニートなどなど問題も山積み・・・
子育ては、上手くいく場合もあるだろうけど、上手くいかない場合も結構ありそうだ。中には深刻な状況に陥る家族もいるだろう。
こんな記事をみつけた。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2991884&media_id=136&from=news_searchより以下転載
・・・・・・・・・
「もういいよっ、どうせ聞く気ないんでしょ、何度言ったって無駄なんだから! もう勝手にしなよ! だいたいいつもさ……そもそも自分の事に責任持ちなよ……」
あぁ、今日は朝からやってしまった。
これが母から子への苛立ちに満ちた言葉のスタートだ。そして理詰めの追及が延々と続く。
■母が子を正論で追い込む
子どもを大人が正論で追い込むのは実に簡単だ。圧倒的に大人が強い。
正論は人を追い込みすぎること、時に現実的でないことを知っているから、通常の人間関係でそれを振りかざさないよう、結構気をつける。でも、子ども相手にこれが止まらない。
自分の満足行くところまで徹底的に言葉で追い込み、子どもが理解できる範囲はとっくに超え何の効果も生まない……母親自身、こんなアプローチが最悪なのは100%自覚している。まったく大人気ない。
そんな妻を目撃して、「これはヤバイ、どうなってるんだ?」と当惑し、逃げるように出勤する夫の皆さんもきっと多いだろう。
これが子どもの日常だとしたらきつい。逃げ場がない。だけど、親は実に簡単にここに落っこちる。
■乳児のうちはこうならない ―― 身体的イライラ
子どもが0~2才くらいの頃は、耐えず眠いし、自分の時間はゼロで、家事はまったくはかどらない。そういう「身体的イライラ」に支配されるものだ。
でも、言葉で子どもを追い込むような事態には陥らないで済む。
この年頃の子どもは、明らかに小さくて弱々しく、大人がいなければとても生命を維持できそうもない。自分は「完全な保護者」であり、子どもと「対等」ではないので、そもそもイライラをぶつける対象にすらならないのだ。
苛立ちの矛先は、自分自身や夫、周りの大人に向けられ、夫婦関係、祖父母関係の問題として処理されていく。
■言葉を喋るようになったら注意せよ!
乳児の母であるうちは到底信じられないかもしれないが、これがいつの間にか変わってくるのだ。
私も息子が赤ちゃん然としている頃は、小さい子どもを言葉で追い込むお母さんを見かけると、「余裕無いのかなぁ」くらいに思っていた。まさか自分が、その手の態度を取るようになるとは思いもせずに……。
変化は「言葉」の発達とともにやってくる。
■対等な人間関係 ―― 言語的イライラ
不思議なもので、子どもが言葉を喋るようになり、最低限のやりとりが成立するようになると、急に「人格」を感じ始める。
親は、言語という共通ツールを得た途端、守る‐守られる親子関係を、急激に「人対人」の対等な人間関係に昇格させてしまうのだ。
それまでは、「保護者である私の問題/責任」だったことが、「あなた自身の問題/責任」にすりかわる。
ちょうど、基本的生活習慣を身につけさせるので必死な時期。繰り返し失敗して、汚れて、泣いて、ぐずって……どんなに丁寧にかみ砕いてアプローチしたって、小さな習慣のひとつひとつは、そう簡単には身につかない。
そのうちイライラがつのり、「なぜやらないの」「さっき同じこと言ったよね」……そんな言葉が「対等」になった子どもに直接投げかけられる。「言語的イライラ」の始まりだ。
■そこに「社会」はない ―― 危険な力関係
さらにいけないことに、人対人の関係に昇格したのに、そこには完全に「社会」が欠如している。多くの乳幼児育児中の母子の関係は、あまりに偏っていて特殊だ。
(1)批判されない ―― 家庭に他人の目はない。
(2)関係が完全に固定 ―― 母子は常に一緒で離れられない。
(3)反論・反撃されない ―― 母子の言語能力と腕力に圧倒的な差がある。
(4)拒絶・逃走されない ―― 幼い子の母親に対する信頼は恐ろしいほど絶対的。
こんな、圧倒的な力の差と閉じた関係を、実際の社会で経験したことがあるだろうか。こんな条件下で「うまくいかないことばかり」続いたら、果たして相手に対し「正しい態度」で接し続けることができるだろうか。
人はそこまで強くない、と、私は思う。
あふれ出る言葉に歯止めが効かない……。良くないと思っていても繰り返す……。
そんな負の循環をして当然の、あまりに偏った構造がそこにある。
■「たまに」で済んでいるうちに……
最初は「たまに」で、済む。たまに異常に長く苛立った説教をしてしまうくらいなら、まぁ、これはもう、人間感情に波がありますから母もね……たまにはね……、でいいのかな、とも思う。
でも、それが「いつも」になり、果ては手が出る恐怖政治につながらないと、誰が自信を持って言えるだろうか。ニュースで見て「ありえない」と思っているような結末が、意外と自分のすぐそばに控えているかもしれない。
全力で踏みとどまらなければいけないラインがある。
■反省より、危険の自覚からスタート
あぁ、またやっちゃったな、自分はダメだな……と後悔と反省を繰り返しても、多分事態は変わらない。「怒鳴る前に深呼吸」の魔法が効くなら楽なものだ。
むしろ「歯止めがきかなくて当然」な厳しい条件下に自分がいるという自覚からスタートした方がいい。
自分自身の「心」が駄目なのではなく、自分が「極めて危険な構造」のど真ん中にいるだけなのだ。それをはっきり自覚して初めて、阻止する対策が取れる。
■何ができる?
この「危険な構造」にゆらぎを与えることを、抑止力にできないだろうか。
子どもと離れる時間を作る。乳幼児の遊びスペースに出かける。託児付きの講座に通う。誰かにヘルプに来てもらう。……そういう「いつもの母子関係」に何でもいいから「変化」を加える。
今朝、やっちゃったなぁと思った私は、いつものルールを変えてみた。
学童クラブに息子を送ったあと、気持ちをひきずりそうだったから、いつもなら家でする仕事をカフェでやることにした。
隣に他人がいて、「充電いいですか?」と声をかける人がいて、「今打ち合わせ中なんで」と電話で嘘の言い訳をしている人がいて……そういう普通の「社会」を肌で感じると、いかに自分と子どもの関係が固定的で閉鎖的で危険か、ということに気づく。
落とし穴に落ちるな、自分の帝国にするな、息子のレベルは今どこだ? 普通の人間関係ならどう表現した?……。
小さなきっかけだけれど、とりあえず、夕方は言葉で追い込まずに息子と過ごせた。
■周りは何ができる? 夫ができるアプローチ
妻の理詰めの説教が異常に見えたとき、夫が仲裁したり諭したりしても「わかってる!」できっと無駄に終わる。子どもを守ろうと妻を怒鳴りつけたり、妻と一緒に子どもを叱るのも「わかってない!」と心を閉ざすだけだろう。
そういう直球の「介入」じゃなく、むしろ必要なのは「危険な構造」からの救出作戦。母子の固定した関係を積極的に崩しにかかるのはどうだろう?
家事や子どもの相手のうち「いつもの妻の役割」を少しずつランダムに交代するだけでも、パターンが崩れ構造は少しゆらぐ。
母の怒りにさらされた子どもと戦いごっこでもして発散させるとか、「お母さん疲れてるみたいでひどく怒ってたね、今のはきつかったね、でも、○○をしなかったのはいけないことだよ」と、穏やかに気持ち受け止め係をするとか。
その後きっと自己嫌悪に陥る妻にコンビニでプリンを買ってくるとか、「ちょっとコーヒーでも飲んで来たら」と送り出すとか。
・・・・・
転載終わり。
うまく介入してくれる夫(パパ)がいてくれるといいのだけど。
実際、逃げちゃう夫(パパ)も多いかもなあ。いや、夫だってキツイもの。介入の仕方を間違えば、火の粉は自分に降りかかる。
けど、それだけ子育ては大変なのだろう。
いや、親子間のまえに夫婦間だって上手くいかない場合もけっこうあるだろう。
家族がいる=幸せ、という図式がさらに追い詰めるのかもしれない。
ほかの人たちは幸せにやっているのに、なんでうちだけ? となれば、さらにしんどくなるのかもしれない。
やはり、どのくらい家庭にエネルギーをそそぐことができるか。
家庭に何か問題が起きた時、ほぼ100パーセント注げる、それが辛くない、当然だと思うという人が家庭を持つ資格があるのかもしれない?
まあ、そんなことを考えてしまった。
2015-05-04 16:18
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