つぶやき「大津いじめ死亡関連」その9 [学校・教育・いじめ・少年犯罪関連]
【はじめに】
ここで取り扱っている情報はすべて【確証のない伝聞】であり、実際に見たり聞いたりしたわけではなく、ネットやマスメディアの情報を「事実だとしたら」と仮定して、意見や考えを書いている。推測の域を出ない。
流れてくる情報が事実かどうかは「感触」に頼って判断している。偽情報をつかませられている可能性ももちろんある。
「裏づけをしっかりとって書け」と言われると、そこまでの力はないし、確証がないことを書くなと言われれば、実際に見聞きしたこと以外、こういった事件やニュースについては何も書けなくなる。
ネットの良いところは、こうした私を含めた一般素人にも、公に発言する場が与えられていることだろう。
とにかく一番、訴えたいのは「本当に自殺なのか?」という点である。
「自殺は良くない」「自殺する勇気があるのならば、いくらでも方法があったはず」「これにより、いじめによる自殺が連鎖してしまう」などという被害者に対するコメントも見聞きする。なので、自殺ではなく事故死だったとしたら、と思ってしまうのだ。
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7月28日
片山さつき氏のブログ記事にて、警察が「自殺と判断した理由」が書かれている。
http://satsuki-katayama.livedoor.biz/archives/7350713.html
その中に「蘇生処置を施したとの報告はない」というところについて・・・
2011年12月29日の産経新聞記事には第一発見者が心臓マッサージを施したとの記述があるのだが・・・
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/540213/
以下抜粋。
【第1発見者となったマンションの管理人の男性は「ほかの住民から『バーンという大きな音がした』と聞いて、急いで広場に出てみたら男子生徒があおむけで倒れていた」と振り返った。すぐに119番通報し、心臓マッサージを試みたが、すでに意識はなかったという。】
なので、やっぱり腑に落ちない。産経新聞が適当にウソを書いたのか?
でも「心臓マッサージを試みた」と、わざわざ書くだろうか?
あとは何といっても、スポーツバッグをわざわざ持って、自宅マンション14階に上がり、自殺をするだろうか?という点もひっかかる。
事故死という証拠もないが、自殺だという決定的な証拠(目撃情報、監視カメラ)はなさそうである。
ただ、もう「自殺」ということで捜査は進んでいるらしい。
※下で「いじめ犯罪は警察の介入が必要」と書いたが、地域によっては警察も当てにならない場合もあるかもしれない。しかし、報復を恐れて口を閉ざすより、第三者へ訴え、第三者が介入したほうが「閉鎖社会=学校の問題の突破口」になる気がする。
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7月27日
「ニュースポストセブン」より一部転載。
【大津では、自殺の20日後に開かれた「緊急保護者会」で、こんな騒動があった。同級生の娘を持つ母親の話だ。
「いじめたとされる生徒のお母さんはPTA会長です。会場にはいると、そのかたからのチラシが手元に配られた。『息子はそんなことはしていない』という内容の文面でした。子供同士の遊びの場面をつかまえられて、いじめだといわれることは心外だと。自分の子供を守ろうとしているのはわかりますが、かなり違和感がありました」
事実関係について保護者に詰め寄られた学校が進退窮まり、ついに「いじめはあったとしかいいようがない」と漏らすや、この母親が「それは憶測です! 憶測でものをいわないでください!」と声を荒らげ、校長がたじろぐ一幕があった。】
転載終わり。
いじめ加害者の親の態度・・・校長でさえたじろいでしまう・・・
学校は何も出来ない。一般生徒たちやいじめ被害者はどうしていいか分からないだろう。報復も恐ろしいだろう。
学校が頼りないのは仕方ない。やはり警察に駆け込めるようにしたほうがいいと思う。
警察が介入すれば、加害者もそう簡単に報復行為には出られないと思う。(ストーカーも警察が介入すれば9割はそこでおさまるという)
もちろん、中には報復する加害者も出てくるかもしれないが、厳罰に処し、厳罰化で抑止効果を狙うしかないように思う。
何度も同じことを書いているが、犯罪レベルのいじめには、やはり警察の介入が必須。警察ならば捜査権があり、証拠を集められる。
もちろん、警察が介入しても、そこには加害者側の弁護士が立ちふさがるだろう。結局は闘うしかなくなるが、ひとりではなく、助けてくれる人や一緒に闘ってくれる人がいるだけでかなり救われるのではないだろうか。自殺は防げるだろうと思う。
ところで、この「加害者の親の態度」は問題だが・・・「いじめた同級生の死を哂う冷酷な子ども」に育ってしまう家庭とは、一体どのようなものなのだろうか。
しかも冷酷な加害生徒は3人もいるのである。
この冷酷な3人のそれぞれの家庭の共通点は何なのだろう?それとも冷酷さは持って生まれた性質なのか?3人とも?
親の態度は自己中心であるにせよ、子どもがこれほど冷酷に育ってしまうほど、それほど異常な家庭だったのか?すると兄弟もそうなのか?
そのへんは気になる。こういったところも少年犯罪の場合、プライバシーの保護ということで、なかなか表に出てこないものだろうが、社会が知りたいのはこういったところかもしれない。
ところで・・・
下の「余談その2」で話題にした人権派弁護士として著名な菊田幸一氏だが、
テレビ番組で、池田小学校事件の宅間守について、橋元徹弁護士(現大阪府知事)と討論した時に「宅間を死刑にすべきではない」と主張し、その理由として「犯罪者にとって、凶悪事件であっても、それは人生の一コマに過ぎない」と、犯罪者には今後の人生の送らせる事を優先すべきだと語ったらしい。
橋下氏は「それなら被害者は何なのだ。子供が殺されたことは人生の一コマと遺族の前で言ってみろ」と声を荒げたそうである。
人権派の菊田弁護士は、「殺人は人生の一コマに過ぎない=たいしたことではない」とお考えのようで(「一コマに過ぎない」という表現は、そう受け取られても仕方ない)、これのどこが「人権派」なのだろう、と思ってしまった。
人権派とは正義ではなく、単に加害者の利益のために闘う弁護士ということで、それは弁護士として当然の仕事であり、勝つためには被害者側を踏みにじるのも当然の行為であるのかもしれない。
よって「人権派の言う人権」とは正義でもなんでもなく、自分たちサイドの利益のために、闘って勝つのに「使える道具」「便利な言葉」に過ぎないのだな、と改めて思ってしまった。
しかし、加害者の利益のために闘うのが仕事とはいえ、こういった発言ができるということは、何かが欠落しているとしか思えない。
冷酷な3人と菊田弁護士と、どこか共通点があるような気がする・・・菊田弁護士もこの加害生徒3人も【殺人はたいしたことではない、人の死もたいしたことではない】と思っているのかもしれない。
だから、3人は、いじめの延長として、いじめていた同級生の死を哂うことができたのかもしれない。菊田弁護士も、殺害された子ども達の死を軽く扱い、「一コマに過ぎない」と表現したり、被害者遺族を恫喝したり、馬鹿にしたりできるのかもしれない。
しかし、それは反社会的な感覚である。
日本国は「殺人は重罪であり、許されない行為である」としている社会だと思うので。
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7月26日
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20120724-OHT1T00249.htm
報知新聞より一部転載
【大津市の中2男子自殺では、男子生徒が死亡した後も、加害者とされる3人の生徒たちが嫌がらせのように男子生徒の机でトランプ遊びをするなど“いじめ”はやむことがなかったという。同級生が24日までの共同通信の取材に明らかにした。
男子生徒が自殺した翌日の20分間の昼休み。「ぎゃははは」。甲高い笑い声が教室に響く。男子生徒が使っていた教室の中央に置かれた机を囲み、3人の生徒がトランプを始めた。
椅子に浅く腰掛け、足を投げ出した格好で遊ぶ3人。七並べか、神経衰弱だろうか。机の上にトランプを広げ、楽しそうにしていた。
教室にはほかに15~20人の生徒がそれぞれの席で休んだり、話をしたりしていたが、トランプ遊びに気付くと、その場で様子をうかがっていた。
「心の中ではみんな『なにをやってるんや』とあきれて怒っていた」。同級生だった生徒は振り返る。見ていられずに教室を出て行った生徒の姿も目に入った。
だが「やめよう」という一言は言えなかった。「誰も言わないから、言い出しにくかった」。止めることはできず、遊びに興じる3人を、ただにらみつけた。
6時間目の授業が終わり、帰りの会が始まるまでの空き時間。教室の後ろには3人のうち2人の姿があった。5人ぐらいの男子生徒が「なにやってんや」と近寄ったが、慌ててすぐに離れた。
2人は、掲示板の体育祭で撮った男子生徒の写真に画びょうを刺していた。笑いながらプスプスと軽く、何度も。
「あり得ない」「どん引き」。クラスのほとんどが見ていた。「なんでそんなことするん」。女子生徒が泣きながら大声を上げた。】
転載終わり。
さて、このことについて、以下のサイトに書かれていたことだが、私も同じように思ったので、一部転載。
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4733.htmlより
【7月19日発売の「週刊文春」2012年7月26日号では「帰りの会が終わった後、AとBが教室の後ろの壁に貼ってあるクラスの集合写真の加藤君の顔に画鋲をプスプス刺し始めた」のは、事件当日の10月11日だと述べていた。
しかし、上の報知新聞の記事では、画びょう刺し事件は死亡事件の翌日「10月12日の6時間目の授業が終わり、帰りの会が始まるまでの空き時間」だと述べている。
どちらが正しいから明確ではないが、もし画びょう差し事件が翌日12日だったとすると、死亡事件当日11日の3人がアリバイがまた消滅することとなる。
仮に画びょう差し事件が11日当日だとしても、アリバイがあるのは6時間目の授業が終わった帰りの会の前後であり、死亡事件があった朝8:20前のアリバイは証明されていない。
画びょう差し事件が昨年10月11日の午後か12日の午後かより、何はともあれ事件当日10月11日朝8:20頃の3人のアリバイを明確にしてほしい。】
転載終わり。
加害者らの被害者の死に対する行為や感覚は異常である。
しかも、加害者らは、周囲の生徒の気持ちも無視・・・思いやりのかけらもなく、冷酷で、自分たちの欲望のまま、突き進んでいる感じだ。
このような加害生徒らが普通の学校で更生などできるはずがない。転校先で、また「ワル同士」で手を組み、犯罪行為に手を染め、犠牲者が増えるだけであることは明確。
どうして、このような恐ろしい子どもが育ったのか?加害者らの家庭環境はどうだったのか?も知りたい。
まあ、報道されている親の言動を見れば、どういう教育をされたのか、察することはできるが。
ちなみに「加害者の家庭環境」について、ポストセブンより転載。
【リーダー格は高台の高級住宅地に住むAで、小学校のころから成績優秀な模範生だった。学校行事に協力的な母親は、PTA会長を務めたこともある地域の顔役だ。Aと同じ住宅地に住むBも、医学部出身の父を持つ裕福な家庭である。Cのみは両親の離婚、養育者である母の再婚という、やや入りくんだ事情を抱えていた。】
転載終わり。
AもBも兄弟が多い(2人以上)ということで、世間で言われる「兄弟が多い=良いこと」は必ずしも当てはまらないようである。
加害者にきちんと更生させようという動きもない中、また普通の学校に入れてしまおうとしているとしたら、冷酷で異常な加害生徒らに、皆が警戒するのは当然だ。
人権派は「受け入れて欲しい」「加害者にも人権がある」「加害者を受け入れず遠ざけ無視することは、いじめと同じであり、加害者と同じ穴の狢だ。いじめを批判する資格はない」「加害者を暖かい心で見守って欲しい」ときれいごとを言うのだろうが。
普通学校への転入には、その学校に通う生徒側の反対運動が起こるかもしれない。また子どもが犠牲になるかもしれないから。
地域住民も恐ろしいだろう。その地域で重犯罪が起こるかもしれない。
よって、現実問題、加害者らの更生場所は少年院しかないように思う。「きれいごと」はもう通用しないだろう。
やはり「人権教育」が害になっているのではないか、と思う。(人権派は「ネットリンチ=ネットで加害者の情報を流したからだ」とネットの所為にするのだろうが)
悪いことをしても、【人権】とやらがいろいろ守ってくれるのである。人を殺してもいいのだ。裁判でちょっと反省したふりをすればいい。そして殺意はなかった、遊びだったということにすれば罪は軽くなる。
あるいは被害者の落ち度を、作り上げてしまえばいい。
死人に口なしである。
【人権】は死んでしまった被害者にはないのだ。ひたすら加害者の人権が守られる。それが今日、日本でまかり通っている「人権」なのである、
人権派弁護士があらゆる手段を使って、罪を軽くしてくれるだろう。
学校も保身を考えるので、隠蔽に協力してくれる。
とにかく「人権」を叫べばいい。「こっちが被害者だ」と被害者ぶればいいのだ。
人権団体や人権派弁護士が陰で助けてくれる。上手く行けば「無罪放免」である。
なので、警察には新たな犠牲者が出ないように、善良な子ども達や市民を守るために、がんばってほしい。
加害者は「人権侵害だ。犯人扱いして、証拠を示せ」と言うだろう。(学校には手が負えない。証拠をそろえることも難しいだろうし、その問題だけにエネルギーをかけられない)
人権団体や人権派弁護士は、警察を敵視するが、善良な市民はその警察に頼るしかなくなる。警察にもっと捜査権限を与えて欲しいと思うだろう。
人権派の人たちも「人権の偏り」を反省しない限り、おそらく、一般の多くの人は「人権」を胡散臭く思い、その思想を嫌い、その思想と反対の意見を持つ者を支持するようになるだろう。
偏れば偏るほど、その反動は大きい。
人権派の人たちはそのことを考えたほうがいいかもしれない。
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余談その1
「加害者が死ねば満足なのか?」「加害者に同じ死の恐怖を味わせたいということですか?」その問いを被害者遺族にする時点で、「人の気持ちに疎く、偏っている」ということだ。
「加害者にも事情があった(加害者だけのせいではない。恵まれない環境の所為である)」「死刑にしても被害者は戻ってこない」と言うのも、どうかと思う。
「被害者は死んでしまったので、その時点で仕方ないとあきらめさない。加害者だけが悪いのではない、社会が悪いのだ、たまたま被害にあって、運が悪かったのだ」ということで、
それは「仕方ないで片付けられるくらい、被害者の命は軽いのだ」と言っているようなものである。
被害者が命を奪われた時点で「解決はしない」「償いは出来ない」のである。死刑でも懲役刑でもだ。
勝間和代さんなどは「家族が殺されても、死刑廃止を主張する」と発言されているが、勝間さんだからこそ理性的にそう考えることができるのだろう・・・あるいは・・・家族への気持ちは薄い?本当にお子さんが何の落ち度もないのに惨い殺され方をしても(たとえば光市母子殺人事件のようにだ)、死刑廃止を主張することが出来るのか?と穿った見方をしてしまいそうだ・・・
多くの一般の人は、もしも家族が無下に殺されたら、加害者に憎しみを持つのが当然であり、加害者の死刑を望むだろう。人間として当然の感情であり、またその感情に多くの人が共感するのも当然である。
「死刑制度を感情論で議論するな」と、いかにも「死刑廃止」は論理的であるように、死刑廃止論者は思っているようである。
社会システム(法律)を決めるとき、「感情は排除しろ」ということならば・・・
「社会システムはできるだけ公平であるべき」は感情論ではなく、理にかなっているはずだ。
ならば命を奪ったのであれば、基本的に「死刑にすること」でしか、「公平」に近づけない。何の落ち度もない被害者を殺害したのに、加害者のみ「更生=社会へ復帰」できるのは非常に不公平である。
その不公平さを我慢して、加害者を許し、更生をさせ、社会が受け入れるべきだ、というほうが「情に訴えた感情論」だろう。
加害者に人権があるように、被害者遺族にも人権はある。死んだ被害者には「すでに人権がない」としてもだ。
加害者が反省しているかどうか、「感情の部分」を刑罰を決めるときに考慮するのであれば、被害者遺族の感情も考慮すべきだろう。(ただし、量刑を決めるとき、こういった「反省しているかどうか、分からない」=「確証を得られないこと」を考慮してはいけないと思うが)
少年法の厳罰化を望む。
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余談その2
2011年1月14日の話題だったらしいが・・・江田五月法相は14日夜の記者会見で、死刑執行について「死刑というのはいろんな欠陥を抱えた刑罰だ。国民世論や世界の大きな流れも考え、政治家として判断すべきものだ」と述べ、世論の動向などを踏まえて慎重に判断する考えを示した。
江田氏は「もともと人間はいつかは命を失う存在だ。そう(執行を)急ぐことはないじゃないかという気はする」とも指摘したという。
この発言に対し、「これだと、どうせ死ぬから、殺人してもいいってことになりませんか?」 というコメントがあったが、私もそう思ってしまった。
そういう考えのほうが「人(とくに被害者側)の命を軽く見ている」ということのように思う。
ところで、デヴィ夫人のメルマガにも、いろいろと興味深いことが書かれてあった。
そこで、デヴィ夫人メルマガより一部転載。(メルマガは無料なので、転載しても差し支えないだろうと思う)
【「人権派弁護士」と「刑法学者」、明治大学法学部教授の菊田幸一氏の立案によって作られた、旧「監獄法」の新法である、「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(刑事収容施設法)」
この法律の第1条には「被収容者等の人権尊重を目的とした法律・・・」
つまり加害者の人権を守る目的と書かれているのです。
今や矯正収容施設(刑務所・少年院・鑑別所・拘置所等)は、「犯罪者の駆け込み寺」「犯罪者の福祉施設」「犯罪者の楽園」と化しているのです。】
またデヴィ夫人のメルマガにはこういうことも記されてあった。
以下、転載。
【「刑事収容施設法」の立案に携わった菊田幸一氏は、生放送討論番組で、「光市母子殺害事件」の被害者遺族である本村洋さんに対し「あんた、少年が死ねばそれで満足なのかよ」「法律も知らないくせに」との暴言を吐きました。】
転載終わり。
人権派と言われる人の人間性が現れたように思う。
一方の人権だけ過剰に大切にし、もう一方の人権は踏みにじる。「加害者の死刑(極刑)を望む被害者遺族の本村さん」に、多くの人が共感しているのを、苦々しく思って、このような発言が出たのかもしれない。
人権派と呼ばれる人が活躍するたびに、「人権」という名の化けの皮が剥がれていくようだ。
人権派弁護士にとっての敵・攻撃対象は被害者(遺族)も含まれるのだ。
大津のいじめ犯罪加害者らも、人権派弁護士が弁護につくにかもしれない。もちろん無罪放免を狙うだろう。
加害者は罪が軽くなるよう、そのことだけにエネルギーを注ぐようになり、自分の利益だけを考えるようになり、ますます反省の機会を奪われ、つまり、それは更生の機会も奪うことになる。
人権派が訴える「人権」は、社会の害にしかならない気がする。
人間社会にとっては大切な「人権」は・・・人権派と呼ばれる人たちによって、歪められてしまった感じがする。
参照サイト
http://netpower1.blog14.fc2.com/blog-entry-1181.html「加害者のみの人権に厚く、被害者遺族には恫喝し、暴言を吐く人権派弁護士の菊田幸一氏」について
http://oheohehe.at.webry.info/200706/article_39.html「光市母子殺人事件」について
↑殺人を犯した加害者は手紙で『五年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。キタナイ外へ出る時は、完全究極体で出たい。じゃないと二度目のぎせい者が出るかも』と、再犯の可能性を自ら示している。
少年法は完全になめられていることが分かる。
被害者の人権を無視し、被害者遺族を恫喝し、バカにする人権派弁護士の態度を見れば、加害者も心から被害者へ謝罪しようとは思わないだろう。自分のやったことを正当化し、反省などしない。
大津のいじめ加害者にも厳罰を求めるが、もし無罪放免であったら・・・
大津クラスの犯罪では無罪を勝ち取れると知った「いじめ加害者たち」は暴行や恐喝などの犯罪行為を安心してを行うことができ、一部の荒れた学校は犯罪天国になるかもしれない。もちろん皇子山中学校も次の犠牲者が出るだろう。
ここで取り扱っている情報はすべて【確証のない伝聞】であり、実際に見たり聞いたりしたわけではなく、ネットやマスメディアの情報を「事実だとしたら」と仮定して、意見や考えを書いている。推測の域を出ない。
流れてくる情報が事実かどうかは「感触」に頼って判断している。偽情報をつかませられている可能性ももちろんある。
「裏づけをしっかりとって書け」と言われると、そこまでの力はないし、確証がないことを書くなと言われれば、実際に見聞きしたこと以外、こういった事件やニュースについては何も書けなくなる。
ネットの良いところは、こうした私を含めた一般素人にも、公に発言する場が与えられていることだろう。
とにかく一番、訴えたいのは「本当に自殺なのか?」という点である。
「自殺は良くない」「自殺する勇気があるのならば、いくらでも方法があったはず」「これにより、いじめによる自殺が連鎖してしまう」などという被害者に対するコメントも見聞きする。なので、自殺ではなく事故死だったとしたら、と思ってしまうのだ。
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7月28日
片山さつき氏のブログ記事にて、警察が「自殺と判断した理由」が書かれている。
http://satsuki-katayama.livedoor.biz/archives/7350713.html
その中に「蘇生処置を施したとの報告はない」というところについて・・・
2011年12月29日の産経新聞記事には第一発見者が心臓マッサージを施したとの記述があるのだが・・・
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/540213/
以下抜粋。
【第1発見者となったマンションの管理人の男性は「ほかの住民から『バーンという大きな音がした』と聞いて、急いで広場に出てみたら男子生徒があおむけで倒れていた」と振り返った。すぐに119番通報し、心臓マッサージを試みたが、すでに意識はなかったという。】
なので、やっぱり腑に落ちない。産経新聞が適当にウソを書いたのか?
でも「心臓マッサージを試みた」と、わざわざ書くだろうか?
あとは何といっても、スポーツバッグをわざわざ持って、自宅マンション14階に上がり、自殺をするだろうか?という点もひっかかる。
事故死という証拠もないが、自殺だという決定的な証拠(目撃情報、監視カメラ)はなさそうである。
ただ、もう「自殺」ということで捜査は進んでいるらしい。
※下で「いじめ犯罪は警察の介入が必要」と書いたが、地域によっては警察も当てにならない場合もあるかもしれない。しかし、報復を恐れて口を閉ざすより、第三者へ訴え、第三者が介入したほうが「閉鎖社会=学校の問題の突破口」になる気がする。
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7月27日
「ニュースポストセブン」より一部転載。
【大津では、自殺の20日後に開かれた「緊急保護者会」で、こんな騒動があった。同級生の娘を持つ母親の話だ。
「いじめたとされる生徒のお母さんはPTA会長です。会場にはいると、そのかたからのチラシが手元に配られた。『息子はそんなことはしていない』という内容の文面でした。子供同士の遊びの場面をつかまえられて、いじめだといわれることは心外だと。自分の子供を守ろうとしているのはわかりますが、かなり違和感がありました」
事実関係について保護者に詰め寄られた学校が進退窮まり、ついに「いじめはあったとしかいいようがない」と漏らすや、この母親が「それは憶測です! 憶測でものをいわないでください!」と声を荒らげ、校長がたじろぐ一幕があった。】
転載終わり。
いじめ加害者の親の態度・・・校長でさえたじろいでしまう・・・
学校は何も出来ない。一般生徒たちやいじめ被害者はどうしていいか分からないだろう。報復も恐ろしいだろう。
学校が頼りないのは仕方ない。やはり警察に駆け込めるようにしたほうがいいと思う。
警察が介入すれば、加害者もそう簡単に報復行為には出られないと思う。(ストーカーも警察が介入すれば9割はそこでおさまるという)
もちろん、中には報復する加害者も出てくるかもしれないが、厳罰に処し、厳罰化で抑止効果を狙うしかないように思う。
何度も同じことを書いているが、犯罪レベルのいじめには、やはり警察の介入が必須。警察ならば捜査権があり、証拠を集められる。
もちろん、警察が介入しても、そこには加害者側の弁護士が立ちふさがるだろう。結局は闘うしかなくなるが、ひとりではなく、助けてくれる人や一緒に闘ってくれる人がいるだけでかなり救われるのではないだろうか。自殺は防げるだろうと思う。
ところで、この「加害者の親の態度」は問題だが・・・「いじめた同級生の死を哂う冷酷な子ども」に育ってしまう家庭とは、一体どのようなものなのだろうか。
しかも冷酷な加害生徒は3人もいるのである。
この冷酷な3人のそれぞれの家庭の共通点は何なのだろう?それとも冷酷さは持って生まれた性質なのか?3人とも?
親の態度は自己中心であるにせよ、子どもがこれほど冷酷に育ってしまうほど、それほど異常な家庭だったのか?すると兄弟もそうなのか?
そのへんは気になる。こういったところも少年犯罪の場合、プライバシーの保護ということで、なかなか表に出てこないものだろうが、社会が知りたいのはこういったところかもしれない。
ところで・・・
下の「余談その2」で話題にした人権派弁護士として著名な菊田幸一氏だが、
テレビ番組で、池田小学校事件の宅間守について、橋元徹弁護士(現大阪府知事)と討論した時に「宅間を死刑にすべきではない」と主張し、その理由として「犯罪者にとって、凶悪事件であっても、それは人生の一コマに過ぎない」と、犯罪者には今後の人生の送らせる事を優先すべきだと語ったらしい。
橋下氏は「それなら被害者は何なのだ。子供が殺されたことは人生の一コマと遺族の前で言ってみろ」と声を荒げたそうである。
人権派の菊田弁護士は、「殺人は人生の一コマに過ぎない=たいしたことではない」とお考えのようで(「一コマに過ぎない」という表現は、そう受け取られても仕方ない)、これのどこが「人権派」なのだろう、と思ってしまった。
人権派とは正義ではなく、単に加害者の利益のために闘う弁護士ということで、それは弁護士として当然の仕事であり、勝つためには被害者側を踏みにじるのも当然の行為であるのかもしれない。
よって「人権派の言う人権」とは正義でもなんでもなく、自分たちサイドの利益のために、闘って勝つのに「使える道具」「便利な言葉」に過ぎないのだな、と改めて思ってしまった。
しかし、加害者の利益のために闘うのが仕事とはいえ、こういった発言ができるということは、何かが欠落しているとしか思えない。
冷酷な3人と菊田弁護士と、どこか共通点があるような気がする・・・菊田弁護士もこの加害生徒3人も【殺人はたいしたことではない、人の死もたいしたことではない】と思っているのかもしれない。
だから、3人は、いじめの延長として、いじめていた同級生の死を哂うことができたのかもしれない。菊田弁護士も、殺害された子ども達の死を軽く扱い、「一コマに過ぎない」と表現したり、被害者遺族を恫喝したり、馬鹿にしたりできるのかもしれない。
しかし、それは反社会的な感覚である。
日本国は「殺人は重罪であり、許されない行為である」としている社会だと思うので。
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7月26日
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20120724-OHT1T00249.htm
報知新聞より一部転載
【大津市の中2男子自殺では、男子生徒が死亡した後も、加害者とされる3人の生徒たちが嫌がらせのように男子生徒の机でトランプ遊びをするなど“いじめ”はやむことがなかったという。同級生が24日までの共同通信の取材に明らかにした。
男子生徒が自殺した翌日の20分間の昼休み。「ぎゃははは」。甲高い笑い声が教室に響く。男子生徒が使っていた教室の中央に置かれた机を囲み、3人の生徒がトランプを始めた。
椅子に浅く腰掛け、足を投げ出した格好で遊ぶ3人。七並べか、神経衰弱だろうか。机の上にトランプを広げ、楽しそうにしていた。
教室にはほかに15~20人の生徒がそれぞれの席で休んだり、話をしたりしていたが、トランプ遊びに気付くと、その場で様子をうかがっていた。
「心の中ではみんな『なにをやってるんや』とあきれて怒っていた」。同級生だった生徒は振り返る。見ていられずに教室を出て行った生徒の姿も目に入った。
だが「やめよう」という一言は言えなかった。「誰も言わないから、言い出しにくかった」。止めることはできず、遊びに興じる3人を、ただにらみつけた。
6時間目の授業が終わり、帰りの会が始まるまでの空き時間。教室の後ろには3人のうち2人の姿があった。5人ぐらいの男子生徒が「なにやってんや」と近寄ったが、慌ててすぐに離れた。
2人は、掲示板の体育祭で撮った男子生徒の写真に画びょうを刺していた。笑いながらプスプスと軽く、何度も。
「あり得ない」「どん引き」。クラスのほとんどが見ていた。「なんでそんなことするん」。女子生徒が泣きながら大声を上げた。】
転載終わり。
さて、このことについて、以下のサイトに書かれていたことだが、私も同じように思ったので、一部転載。
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4733.htmlより
【7月19日発売の「週刊文春」2012年7月26日号では「帰りの会が終わった後、AとBが教室の後ろの壁に貼ってあるクラスの集合写真の加藤君の顔に画鋲をプスプス刺し始めた」のは、事件当日の10月11日だと述べていた。
しかし、上の報知新聞の記事では、画びょう刺し事件は死亡事件の翌日「10月12日の6時間目の授業が終わり、帰りの会が始まるまでの空き時間」だと述べている。
どちらが正しいから明確ではないが、もし画びょう差し事件が翌日12日だったとすると、死亡事件当日11日の3人がアリバイがまた消滅することとなる。
仮に画びょう差し事件が11日当日だとしても、アリバイがあるのは6時間目の授業が終わった帰りの会の前後であり、死亡事件があった朝8:20前のアリバイは証明されていない。
画びょう差し事件が昨年10月11日の午後か12日の午後かより、何はともあれ事件当日10月11日朝8:20頃の3人のアリバイを明確にしてほしい。】
転載終わり。
加害者らの被害者の死に対する行為や感覚は異常である。
しかも、加害者らは、周囲の生徒の気持ちも無視・・・思いやりのかけらもなく、冷酷で、自分たちの欲望のまま、突き進んでいる感じだ。
このような加害生徒らが普通の学校で更生などできるはずがない。転校先で、また「ワル同士」で手を組み、犯罪行為に手を染め、犠牲者が増えるだけであることは明確。
どうして、このような恐ろしい子どもが育ったのか?加害者らの家庭環境はどうだったのか?も知りたい。
まあ、報道されている親の言動を見れば、どういう教育をされたのか、察することはできるが。
ちなみに「加害者の家庭環境」について、ポストセブンより転載。
【リーダー格は高台の高級住宅地に住むAで、小学校のころから成績優秀な模範生だった。学校行事に協力的な母親は、PTA会長を務めたこともある地域の顔役だ。Aと同じ住宅地に住むBも、医学部出身の父を持つ裕福な家庭である。Cのみは両親の離婚、養育者である母の再婚という、やや入りくんだ事情を抱えていた。】
転載終わり。
AもBも兄弟が多い(2人以上)ということで、世間で言われる「兄弟が多い=良いこと」は必ずしも当てはまらないようである。
加害者にきちんと更生させようという動きもない中、また普通の学校に入れてしまおうとしているとしたら、冷酷で異常な加害生徒らに、皆が警戒するのは当然だ。
人権派は「受け入れて欲しい」「加害者にも人権がある」「加害者を受け入れず遠ざけ無視することは、いじめと同じであり、加害者と同じ穴の狢だ。いじめを批判する資格はない」「加害者を暖かい心で見守って欲しい」ときれいごとを言うのだろうが。
普通学校への転入には、その学校に通う生徒側の反対運動が起こるかもしれない。また子どもが犠牲になるかもしれないから。
地域住民も恐ろしいだろう。その地域で重犯罪が起こるかもしれない。
よって、現実問題、加害者らの更生場所は少年院しかないように思う。「きれいごと」はもう通用しないだろう。
やはり「人権教育」が害になっているのではないか、と思う。(人権派は「ネットリンチ=ネットで加害者の情報を流したからだ」とネットの所為にするのだろうが)
悪いことをしても、【人権】とやらがいろいろ守ってくれるのである。人を殺してもいいのだ。裁判でちょっと反省したふりをすればいい。そして殺意はなかった、遊びだったということにすれば罪は軽くなる。
あるいは被害者の落ち度を、作り上げてしまえばいい。
死人に口なしである。
【人権】は死んでしまった被害者にはないのだ。ひたすら加害者の人権が守られる。それが今日、日本でまかり通っている「人権」なのである、
人権派弁護士があらゆる手段を使って、罪を軽くしてくれるだろう。
学校も保身を考えるので、隠蔽に協力してくれる。
とにかく「人権」を叫べばいい。「こっちが被害者だ」と被害者ぶればいいのだ。
人権団体や人権派弁護士が陰で助けてくれる。上手く行けば「無罪放免」である。
なので、警察には新たな犠牲者が出ないように、善良な子ども達や市民を守るために、がんばってほしい。
加害者は「人権侵害だ。犯人扱いして、証拠を示せ」と言うだろう。(学校には手が負えない。証拠をそろえることも難しいだろうし、その問題だけにエネルギーをかけられない)
人権団体や人権派弁護士は、警察を敵視するが、善良な市民はその警察に頼るしかなくなる。警察にもっと捜査権限を与えて欲しいと思うだろう。
人権派の人たちも「人権の偏り」を反省しない限り、おそらく、一般の多くの人は「人権」を胡散臭く思い、その思想を嫌い、その思想と反対の意見を持つ者を支持するようになるだろう。
偏れば偏るほど、その反動は大きい。
人権派の人たちはそのことを考えたほうがいいかもしれない。
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余談その1
「加害者が死ねば満足なのか?」「加害者に同じ死の恐怖を味わせたいということですか?」その問いを被害者遺族にする時点で、「人の気持ちに疎く、偏っている」ということだ。
「加害者にも事情があった(加害者だけのせいではない。恵まれない環境の所為である)」「死刑にしても被害者は戻ってこない」と言うのも、どうかと思う。
「被害者は死んでしまったので、その時点で仕方ないとあきらめさない。加害者だけが悪いのではない、社会が悪いのだ、たまたま被害にあって、運が悪かったのだ」ということで、
それは「仕方ないで片付けられるくらい、被害者の命は軽いのだ」と言っているようなものである。
被害者が命を奪われた時点で「解決はしない」「償いは出来ない」のである。死刑でも懲役刑でもだ。
勝間和代さんなどは「家族が殺されても、死刑廃止を主張する」と発言されているが、勝間さんだからこそ理性的にそう考えることができるのだろう・・・あるいは・・・家族への気持ちは薄い?本当にお子さんが何の落ち度もないのに惨い殺され方をしても(たとえば光市母子殺人事件のようにだ)、死刑廃止を主張することが出来るのか?と穿った見方をしてしまいそうだ・・・
多くの一般の人は、もしも家族が無下に殺されたら、加害者に憎しみを持つのが当然であり、加害者の死刑を望むだろう。人間として当然の感情であり、またその感情に多くの人が共感するのも当然である。
「死刑制度を感情論で議論するな」と、いかにも「死刑廃止」は論理的であるように、死刑廃止論者は思っているようである。
社会システム(法律)を決めるとき、「感情は排除しろ」ということならば・・・
「社会システムはできるだけ公平であるべき」は感情論ではなく、理にかなっているはずだ。
ならば命を奪ったのであれば、基本的に「死刑にすること」でしか、「公平」に近づけない。何の落ち度もない被害者を殺害したのに、加害者のみ「更生=社会へ復帰」できるのは非常に不公平である。
その不公平さを我慢して、加害者を許し、更生をさせ、社会が受け入れるべきだ、というほうが「情に訴えた感情論」だろう。
加害者に人権があるように、被害者遺族にも人権はある。死んだ被害者には「すでに人権がない」としてもだ。
加害者が反省しているかどうか、「感情の部分」を刑罰を決めるときに考慮するのであれば、被害者遺族の感情も考慮すべきだろう。(ただし、量刑を決めるとき、こういった「反省しているかどうか、分からない」=「確証を得られないこと」を考慮してはいけないと思うが)
少年法の厳罰化を望む。
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余談その2
2011年1月14日の話題だったらしいが・・・江田五月法相は14日夜の記者会見で、死刑執行について「死刑というのはいろんな欠陥を抱えた刑罰だ。国民世論や世界の大きな流れも考え、政治家として判断すべきものだ」と述べ、世論の動向などを踏まえて慎重に判断する考えを示した。
江田氏は「もともと人間はいつかは命を失う存在だ。そう(執行を)急ぐことはないじゃないかという気はする」とも指摘したという。
この発言に対し、「これだと、どうせ死ぬから、殺人してもいいってことになりませんか?」 というコメントがあったが、私もそう思ってしまった。
そういう考えのほうが「人(とくに被害者側)の命を軽く見ている」ということのように思う。
ところで、デヴィ夫人のメルマガにも、いろいろと興味深いことが書かれてあった。
そこで、デヴィ夫人メルマガより一部転載。(メルマガは無料なので、転載しても差し支えないだろうと思う)
【「人権派弁護士」と「刑法学者」、明治大学法学部教授の菊田幸一氏の立案によって作られた、旧「監獄法」の新法である、「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(刑事収容施設法)」
この法律の第1条には「被収容者等の人権尊重を目的とした法律・・・」
つまり加害者の人権を守る目的と書かれているのです。
今や矯正収容施設(刑務所・少年院・鑑別所・拘置所等)は、「犯罪者の駆け込み寺」「犯罪者の福祉施設」「犯罪者の楽園」と化しているのです。】
またデヴィ夫人のメルマガにはこういうことも記されてあった。
以下、転載。
【「刑事収容施設法」の立案に携わった菊田幸一氏は、生放送討論番組で、「光市母子殺害事件」の被害者遺族である本村洋さんに対し「あんた、少年が死ねばそれで満足なのかよ」「法律も知らないくせに」との暴言を吐きました。】
転載終わり。
人権派と言われる人の人間性が現れたように思う。
一方の人権だけ過剰に大切にし、もう一方の人権は踏みにじる。「加害者の死刑(極刑)を望む被害者遺族の本村さん」に、多くの人が共感しているのを、苦々しく思って、このような発言が出たのかもしれない。
人権派と呼ばれる人が活躍するたびに、「人権」という名の化けの皮が剥がれていくようだ。
人権派弁護士にとっての敵・攻撃対象は被害者(遺族)も含まれるのだ。
大津のいじめ犯罪加害者らも、人権派弁護士が弁護につくにかもしれない。もちろん無罪放免を狙うだろう。
加害者は罪が軽くなるよう、そのことだけにエネルギーを注ぐようになり、自分の利益だけを考えるようになり、ますます反省の機会を奪われ、つまり、それは更生の機会も奪うことになる。
人権派が訴える「人権」は、社会の害にしかならない気がする。
人間社会にとっては大切な「人権」は・・・人権派と呼ばれる人たちによって、歪められてしまった感じがする。
参照サイト
http://netpower1.blog14.fc2.com/blog-entry-1181.html「加害者のみの人権に厚く、被害者遺族には恫喝し、暴言を吐く人権派弁護士の菊田幸一氏」について
http://oheohehe.at.webry.info/200706/article_39.html「光市母子殺人事件」について
↑殺人を犯した加害者は手紙で『五年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。キタナイ外へ出る時は、完全究極体で出たい。じゃないと二度目のぎせい者が出るかも』と、再犯の可能性を自ら示している。
少年法は完全になめられていることが分かる。
被害者の人権を無視し、被害者遺族を恫喝し、バカにする人権派弁護士の態度を見れば、加害者も心から被害者へ謝罪しようとは思わないだろう。自分のやったことを正当化し、反省などしない。
大津のいじめ加害者にも厳罰を求めるが、もし無罪放免であったら・・・
大津クラスの犯罪では無罪を勝ち取れると知った「いじめ加害者たち」は暴行や恐喝などの犯罪行為を安心してを行うことができ、一部の荒れた学校は犯罪天国になるかもしれない。もちろん皇子山中学校も次の犠牲者が出るだろう。
2012-07-28 17:05
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