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少年犯罪の厳罰化と死刑制度賛成の理由 [社会・ニュース]

「偏った人権派」と理論で闘うには・・・
それには、あやふやな感情や道徳をできるだけ排除して語ってみるのが一番かもしれない。
自分なりに理論武装をしてみる。

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社会はできるだけ「公平なルール」で動いて欲しいと思う。
これは「人権派」の人たちも同じだろう。
むしろ「平等、公平」は人権派の人たちが掲げているスローガンかもしれない。

「できるだけ公平であること」が、一番、人々を納得させ、支持を得られるのではないだろうか、と考える。

さて・・・
「どうして人を殺してはいけないのか?」と問われたら、「それがルールだから」である。

「じゃあ、ルールがなければ人を殺していいのか?」と問われたら、私は「そうだ」と答えるかもしれない。

人は一人で生きて行けないので、【社会】というものを形成する。その社会の中で、不特定多数の人たちが安全に暮すために、「ルール(法律)」というものがあるのだろう。

その社会の中にいる以上は、ルールを守るべきで、ルール違反をすれば、それなりの罰を受けるべきなのである。

人を殺せば、基本的に、加害者の命で償うことが「公平」である。
もちろん、人を殺してしまったら、あるいは完治しない障害を負わせてしまったら、取り返しがつかず、「本当の意味で償うこと」は不可能である。

加害者が少年であっても、それは同じである。
よって、殺人の場合、加害者が少年であっても、基本的に「死刑」はあるべきだと思う。

更生は償うことにはならない。
取り返しが付かないことをしたのだから。

更生が償うことになる、ということこそ、奪った命を軽く見ているということである。

「殺人者は社会に復帰し、幸せになる権利はないのか?」というと、基本的に「権利はない」と思う。

ある人の人権(幸せ)を奪ってしまえば、奪った人に人権(幸せ)はなくなる。これが公平というものである。

それほど「人の命は重い」「人権は大切だ」ということである。
人の命を奪うということは、それほど取り返しのつかない重大事である。

【死刑】はそれを意味しているのである。
決して野蛮な制度ではない、むしろ公平で人の命を重く見た制度である、と考える。

「人の命が重いのに死刑があるとはどういうことか?殺人がいけないのであれば、死刑はなくすべきでは?」という問いに対しては、
「人の命が重いからこそ、それを奪ったものは、死刑と言う究極な厳罰があるのだ」と答える。

「冤罪だったら、死刑は取り返しがつかないのでは?」という問いには
「冤罪だったら、懲役刑でも取り返しはつかない。時間は取り戻せないのだから。そして、冤罪がある限り、死刑はなくすべき、と言うのであれば、懲役刑など刑罰そのものもなくすべきである。しかし、それは無法を意味する。社会の崩壊を招く」と答える。

よって、冤罪と刑罰(死刑)は切り離して考えるべきである。
冤罪を防ぐ手立ては別に論ずるべきだと思う。

そもそも「冤罪の可能性があるから、死刑はなくして、懲役刑にするべき」という論理がおかしい。確固たる証拠がなく、冤罪の可能性が少しでもあるのであれば、その場合、懲役刑=有罪ではなく、無罪放免にするべきである。


死刑が殺人であれば、懲役刑は「拉致監禁」である。

そもそも刑罰は「人権侵害」である。
人権を取り上げるべき人(被害者に落ち度がなく情状酌量の余地のない殺人者)や人権を制限されるべき人(その他の犯罪者)が刑に服すのである。

よって死刑のみが「野蛮な刑」とは思わない。

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http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-9f75.htmlより
大津市の少年らによるリンチ殺人事件で、被害者遺族に対し、平岡さんが放った問い
「(少年たちに)死の恐怖を味わわせてやりたいってことですか?!」(人権派の人たちもよくこういった問いをするのだろう。そして加害者を憎み、死刑を望む遺族に対し「加害者を死刑にしても、被害者は戻ってこないのだから」「被害者はそんなことを望んでいない」「加害者を死刑にすれば満足なのですか」などとお門違いのことの説教をする・・・)に対しては・・・

「命の重さを考えるための死刑である」
「取り返しの付かないことをしたという意味での死刑」
「情状酌量の余地のない殺人者の更生(社会復帰)を望むことは、奪った命を軽く扱うことになる」
「命は重いのだから、同じ重さのもの=命を差し出すことでしか、反省を示す方法がない。本当の意味で償うことは不可能だが、それが公平に近づける唯一の償いである」
・・・と答えられる。

「被害者の奪われた人権を重くみるからこその死刑」である。

「命は重いからこそ、死刑は良くない」「死刑は人権侵害である」という反論とは、かみ合わないし、平行線のままだろう。

しかし「公平」という論理を持ち出せば、どちらが「より公平か」は明白である気がする。

人権派の人たちも「公平さ」は大切に思っているだろう。
だが、死刑廃止や少年に対する死刑反対は、その公平さをなくすことにつながる。

二重基準、矛盾は、死刑廃止論者や少年の死刑反対論者のほうにあると思う。

ルールは、できるだけ公平であるべきである。
不公平なルール=不公平な社会は良くないだと考えるが、そのへん、死刑廃止論者や少年の死刑反対論者は、どう思っているのだろうか?
(もちろん「完璧な公平さ」というものは存在しないだろうが・・・できるだけ公平にすることは、大切である)


そういった社会の中で生きているのだから、ルール守らなくていけないし、守らないものは相当の罰を受けるのが当然である。
人を殺してはいけないのは、それが「その場のルール」だからである。

守りたくない人(人を殺したい、暴行したい人)は、その場(その社会)から離れれば良い。ルールのない無法地帯へ行けば良い。あるいは殺人が認められる傭兵として、内戦のある地帯へ行けばいいだろう。

その代わり、自分も殺される可能性が高い。
人を殺したいのであれば、「安全」との交換になるということだ。

人を殺したいけど、自分は安全でいたい、というのは通らないのである。
それが「公平」というものである。

ちなみに死刑制度が犯罪の抑止力なるのか否かは、分からないだろう。
分からないことを議論しても仕方ないと思う。

※余談だが、勝間和代さんは死刑制度に反対らしい。
http://www.cinematoday.jp/page/N0043734
理由は「冤罪の可能性、犯罪の抑止力にならないから」だそうだ。これは勝間さんだけでなく、わりと多くの死刑廃止論者が言っていることだろうが、それについては、上で説明したとおりである。冤罪と死刑は切り離して考えるべきと思う。
冤罪があるから死刑反対というのであれば、懲役刑などの全ての刑罰にも反対しなくては筋が通らない。冤罪の可能性があるなら、有罪ではなく無罪にするべき。


※「死刑ではなく終身刑にしたらよい」という意見もよく聞くが、財政上、難しいものがあるかもしれない。囚人ひとりにつき、月22万円経費がかかるらしい。税負担が重くなってもいいから、終身刑導入に賛成という国民がどのくらいいるだろうか。
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追記。

大津市のいじめ自殺事件で生徒らへの口止めや隠蔽が行われたことで、須賀川市の中学校柔道部暴行事件を思い出した。

これも当時の教頭らが、柔道部員らを恫喝し口止めし、隠蔽工作が行われたことで、話題になった事件である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%B7%9D%E5%B8%82%E7%AC%AC%E4%B8%80%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%9F%94%E9%81%93%E9%83%A8%E6%9A%B4%E8%A1%8C%E5%82%B7%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

男子柔道部員の練習の名を借りた暴行(・・・柔道の技だけでなく、プロレス技などもかけ、ほかの部員の話によれば、練習ではなく、暴行と受け取れたという)により、頭に重傷を負い、植物状態となった被害者女子柔道部員だが、学校側は「もともと女子生徒は頭に持病があった」とウソをつき、説明していた。
自分たちに不都合なことはウソをついてでも隠蔽し、保身を図ったようだ。

校長や教頭をはじめ、この大人たちの姿を子ども達はどう捉えたのだろうか。
学校側が、ウソをついてでも、責任を逃れようとしたのである。

当然、加害者の男子柔道部員も反省などしないだろう。謝罪も償いもしないだろう。
また裁判では、「被害者が意識不明の重体になったことに関しては、なんとも思ってはいない」とも証言した。

正直、この加害者の男子生徒の人間性が恐ろしい。
自分が傷つけた被害者に対し、罪悪感もなく、「なんとも思っていない」と言い切ったのである。

よって、また暴行事件などを起すかもしれない。そして誰かの人権を奪うかもしれない。
人を傷つけることを何とも思っていないのだから。
隠蔽を図った大人たちによって、そう教育されてしまったのだ。

こういった学校はもう教育の場ではない。この須賀川市立第一中学校や、大津市立皇子山中学校のように、全国には信用できない学校はたくさんあるのかもしれない。

女子生徒はまだ植物状態で、意識不明のまま、寝たきりである。
介護をするご両親の心労は計り知れない。
男子生徒によって、人生を奪われたに等しい。

そして、男子生徒は罰を受けることもなく、よって反省することもなく、罪悪感を抱くこともなく、社会生活を送っているのである。

大津市で起きた「リンチ殺人事件」の加害少年ら(少年院から友人へ当てた手紙より、とても反省している様子がなく、刑を軽くしてもらうために裁判の場だけ反省を装ったと思われる。この件についてはこちらを参照http://yabusaka.moo.jp/outu01.htm)や、自殺した被害者の死を哂ったいじめ加害生徒に通じるものを感じた。

また「光市母子殺人事件」の元少年も、反省している様子がなく、被害者を貶めるような手紙を送り、そのことがきっかけとなり、死刑判決が出た。
この判決がやはり一番納得できる。

そして、反省しているかしていないかは、判決内容に左右されることがあってはならないと思った。反省しているかどうかは分からないのだから。
ましてや、裁判の間だけ、加害者の話を聞く裁判官が判断すべきではない。判断できるはずがない。反省しているふりは、いくらでもできるのだ。

加害少年の本音が書かれたであろう手紙がそれを一番よく表している。裁判官は、加害少年らが反省しているのかどうか見抜けなかったという何よりの証拠である。

光母子殺人事件の加害者は、最初は軽い刑(無期懲役といえど、少年の場合は7,8年で自由になれるという)の判決が出たということで、自分がやったことを軽く見ていただろう。反省もしなかっただろう。だから「被害者を貶める手紙」を書けたのだろう。だって、自分がやったことは「たいしたことではない・・・7,8年の刑ですむのだから」と思っていただろうから。被害者の本村さん母子の命の重さを軽く思っていただろう。

しかし、死刑判決を受けてから、やっと「自分がしでかしたことの重さ」「命の重さ」について真剣に考えることができたのではないだろうか。反省する機会が得られたのではないだろうか。

死刑判決が出なければ、その機会は得られなかったかもしれない。
死刑判決のおかげで「人を殺害することを嫌悪する気持ち、殺人を犯した罪悪感」を持つことができるのかもしれない。それが本当の反省になるのではないだろうか。
(もちろん、勝手な推測であり、最期まで反省しないかもしれないが・・・)


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http://kayashi.blog.so-net.ne.jp/2012-07-09


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