指導者 [人生・生き方・生活・人間関係]
韓国時代劇ドラマ「善徳女王」にはまっている。
「チュモン」「チャングム」「デ・ジョヨン」と同じくらい面白い。
敵役が素敵♪
主人公よりも敵役が光っているとドラマは面白くなるのかもしれない。
敵役が光れば、主人公も光るからだ。
さてさて、その「善徳女王」に、このような場面があった。
・・・主人公の王女は、暴動を起こした民を罪に問わず、民を指導し、民の将来を考え、導こうとした。そして約束(飢えた民に当面の食糧と、土地と「優れた鉄で作られた農具」を与えるかわり、毎年の収穫から少しずつ利子を返させる)をする。
しかし、民は目先の利益をとり、与えられた食糧と農具を持って逃げ、王女との約束を破る。
民は捕らえられ、命乞いをするが、王女は厳しい罰(当時の法では死罪である)を与え、自ら手を血で汚す。
民や部下に甘く見られては、国のトップ=指導者としての立場をなくすからだろう。
甘く見られるようになれば、やがては皆から信用されなくなり、仕事もできなくなるからだろう。
そこで、指導者というものについて、考えさせられたのじゃ。
指導者とは厳しくあらねばならぬものよの~
・・・というわけで、自分は【指導者】としては向かないかもと思った。
私も甘く見られてしまうからだ。
約束を破る生徒に対し、厳しい態度で臨めなかった。いや、練習の重要性を話し、納得させ、忙しい生徒側の事情も考え、どれくらいの時間ならば練習にまわせるかも話し合い、無理のない約束をさせているつもりだが、子どもは「約束を破っても、簡単に許してくれる」と高をくくるものなのだろう。
甘く軽く見ている人間に対し、人は「約束を守るはずもなく」「言うことを聞くはずがない」のだ。
これは、生徒に限ったことではない。
中学や高校時代、約束をしたにも関わらず、友人の「すっぽかし」もくらったことがある。前日に確認を取ったにも関わらずだ。(ちなみに、当時、ケータイというものはない)
私は、約束した場所でまちぼうけ。
さすがにおかしいと思い、こちらから連絡をとった。
すっぽかされた理由は忘れてしまったが、約束を破った友人はそんなに悪びれた様子もなかった。もちろん、なにか連絡できない急用などがあったわけではない。
友人の態度は、今思えば、大変、失礼なものだ。
約束を守れないのであれば、最初から約束をするべきではないし、事情があるなら、早めに連絡を入れてキャンセルをすればすむことだ。
もし、うっかりと忘れたのであれば、真摯に謝ればいいのだ。
それさえ面倒だった、待ちぼうけを食らわせても良い、と思っていたならば、そもそも「友人」ではないだろう。
「どうでもいい人」ということだ。
しかし、そうした友人を責めることなく、何事もなかったように、つきあい続けた。それがますます軽く甘く見られることになっていくのだろう。
私も悪かった。
波風立たせないことを選んだ。
自信のなさも、軽く甘く見られる原因だろう。
この資質は、今も持っているから、軽く甘く見られるのかもしれない。
そういう人間との約束なぞ「どうでもいい」わけで、守られるはずがない。
私は性格的に指導者の器ではないことを、改めて思ってしまった(苦笑)
とりあえず、甘く見られている自分を反省。
「波風立たせないこと」を選んでしまうことも、甘く見られることの原因となるが・・・
ま、今現在であれば、たとえば、そのような失礼な友人(悪びれもせず、これといった理由もないのに、約束を平気で破り、連絡もよこさない)は、こちらから黙って離れるが
波風を立たせるほどのことでもない。
生徒の場合は、生徒側の事情を配慮し、何度も確認したにも関わらず、無理な練習を要求しているわけではないのに(中学生で週3日、20分ですむ量だ。1週間分で計60分以上)、何度も約束が破られる場合は、辞めるよう促すことにしている。
いや、ピアノを辞めさせるのではなく、私を指導者とすることをやめてもらい、ほかの先生につくことを勧めるのだ。
忙しくて、全く練習できない、そんなに時間がないのであれば、練習できる環境になってから、再開してはどうか、とも思う。
マイペースで練習したい人に対しては、フリーレッスンを勧める。
練習ができて、レッスンを受けたくなったら、改めて連絡をとり、来てください、というスタイルだが、ま、たいてい、フェードアウトして、やめるに等しいことになる^^;
「練習しない生徒を切るのは先生の傲慢、あるいは怠慢。もっと分かってもらえるよう先生は努力するべき」
「そんなことをしては仕事がなくなるので、生徒がお客様である楽器店の講師の立場では許されない。先生の甘え」
「冷たい」という意見もあろうが・・・(直に言われたわけではないが、これらも、もっともな意見である)
教える教わるの関係は人それぞれ考えがあることだろうが、生徒をやめさせる、というのは、その生徒の指導者としてふさわしくない、合わない、ってことを判断したからなのだ。
約束を簡単に何度も破るという人間関係は良くないし、
約束を何度も破るというのは、指導者を甘く見ているということであり、そのような指導者の下にいても、損をするのは生徒自身なのだ。
消費社会の世の中、「お金を出す側が上の立場であり、お客様である」と思っている子どもがいるという。
なので、教えることを仕事にしてお金をもらう先生を、「下」に見てしまう子も、ひょっとしたらいるかもしれない。もちろん、お金は【親】が出しているのであるが・・・
「仕事が減って、困るのは先生のほうだ」と生徒側が見くびっているのだとすれば、もう教える教わるの関係は成立しないだろう。
指導者は、自分を軽く甘く見ている人間に対し、切るべき時は切り、で、軽く甘く見られないようにしなくてはならない。(そのための努力は必要かも・・・ま、でも資質ってあるよなあ)
ということを「善徳女王」から学んだ(笑)
○「善徳女王」について補足。
ちなみに、この場面では、主人公はまだ「女王」ではなく「王女」である。
「善徳女王」は7世紀の朝鮮半島での初の女性の王。様々な困難を乗り越え、王女の地位を取り戻し、やがて「王」となり、国を治める話である。戦乱の世なので、戦争もある。難しい時代によくぞ女性の王が誕生したものである。(ドラマはフィクションだが、登場人物は実在した歴史上の人物である。)
余談。その1。
「上から目線」
もちろん、先生と生徒の関係であれば、教える教わるの関係だから、先生が「上から目線」になることは当然だろうけど。
何か意見や考えを言うと「上から目線」って言われることが多い気がする。
いや、直に私が言われたわけではないが・・・ネット上での、他の人たちのやりとりやブログで【上から目線】という言葉が氾濫しているように思う。
なので、意見や考えを言う時、「上から目線って思われるのかしら?」と心配になってしまう^^;
完全な独り言(=ブログ)であれば気にしないが、人との会話では、かなり気をつけないといけないようだ。
なんか疲れるが。
学校でも先生を生徒と対等に見たりする傾向にあるようだし
(・・・先生は生徒を下に見てはいけないということから教壇がない。【仰げばと尊し】は「先生への恩を歌にして強制させるべきではなく、先生に恩を感じるか感じないかは生徒それぞれの自由ということから、歌われなくなった、などなど・・・ま、もちろん、指導者としての先生側に問題がある場合もあるだろうが)
何かにつけ「上から目線」という言葉を見たり聞いたりする・・・「上から目線」に敏感な世の中・・・
「偉そう」「何様?」と相手につっこむために、
反対に、自分が下に見られることへのいらだちや反感を表すための「軽い表現」として、「上から目線」という言葉が使われることが多いのかしら。
指導者として生きる者は、そういった「上から目線が嫌いな世の中の空気」とも闘わなくてはならないのかもしれない。
余談その2。
「具体的な指導」
アドバイスや指導を受けるとき、感覚だけでは理解できない私は、より具体的な言葉で教えられると、「ああ、そういうことか」と頭で理解しやすくなり、頭で理解したものであれば、感覚でも理解することが可能になる^^;
たとえば、「音の響きを聞け」だと、どう聴いていいか分からないけど、「音の消え方(減衰の仕方)を聴け」となると、分かる・・・
で、それによって見えてくるものが分かってくる。
「汚い響き、きれいな響き」もそうだった。昔、私は分からなかった。
でも、「ソプラノとバスを強め、中は弱め、というような音の強弱のバランスを聴け」と言われれば分かる。
そして、感覚的にも「これが汚い音」「これがキレイ」というのも分かるようになってくる。
感覚的にすぐに分かる人もいれば、私のようにちょいと鈍感で、よく分からない人もいるのだ。
でも頭で理解できたものは、感覚でも理解できることが可能になる・・・(ことがある^^;)
頭で理解するには、私の場合、より具体的な言葉による指導やアドバイスが必要となってくる。
音楽は最終的には「言葉で伝えられるもの」ではないけれど・・・
指導する側に立った時、肝に銘じよう・・・
「チュモン」「チャングム」「デ・ジョヨン」と同じくらい面白い。
敵役が素敵♪
主人公よりも敵役が光っているとドラマは面白くなるのかもしれない。
敵役が光れば、主人公も光るからだ。
さてさて、その「善徳女王」に、このような場面があった。
・・・主人公の王女は、暴動を起こした民を罪に問わず、民を指導し、民の将来を考え、導こうとした。そして約束(飢えた民に当面の食糧と、土地と「優れた鉄で作られた農具」を与えるかわり、毎年の収穫から少しずつ利子を返させる)をする。
しかし、民は目先の利益をとり、与えられた食糧と農具を持って逃げ、王女との約束を破る。
民は捕らえられ、命乞いをするが、王女は厳しい罰(当時の法では死罪である)を与え、自ら手を血で汚す。
民や部下に甘く見られては、国のトップ=指導者としての立場をなくすからだろう。
甘く見られるようになれば、やがては皆から信用されなくなり、仕事もできなくなるからだろう。
そこで、指導者というものについて、考えさせられたのじゃ。
指導者とは厳しくあらねばならぬものよの~
・・・というわけで、自分は【指導者】としては向かないかもと思った。
私も甘く見られてしまうからだ。
約束を破る生徒に対し、厳しい態度で臨めなかった。いや、練習の重要性を話し、納得させ、忙しい生徒側の事情も考え、どれくらいの時間ならば練習にまわせるかも話し合い、無理のない約束をさせているつもりだが、子どもは「約束を破っても、簡単に許してくれる」と高をくくるものなのだろう。
甘く軽く見ている人間に対し、人は「約束を守るはずもなく」「言うことを聞くはずがない」のだ。
これは、生徒に限ったことではない。
中学や高校時代、約束をしたにも関わらず、友人の「すっぽかし」もくらったことがある。前日に確認を取ったにも関わらずだ。(ちなみに、当時、ケータイというものはない)
私は、約束した場所でまちぼうけ。
さすがにおかしいと思い、こちらから連絡をとった。
すっぽかされた理由は忘れてしまったが、約束を破った友人はそんなに悪びれた様子もなかった。もちろん、なにか連絡できない急用などがあったわけではない。
友人の態度は、今思えば、大変、失礼なものだ。
約束を守れないのであれば、最初から約束をするべきではないし、事情があるなら、早めに連絡を入れてキャンセルをすればすむことだ。
もし、うっかりと忘れたのであれば、真摯に謝ればいいのだ。
それさえ面倒だった、待ちぼうけを食らわせても良い、と思っていたならば、そもそも「友人」ではないだろう。
「どうでもいい人」ということだ。
しかし、そうした友人を責めることなく、何事もなかったように、つきあい続けた。それがますます軽く甘く見られることになっていくのだろう。
私も悪かった。
波風立たせないことを選んだ。
自信のなさも、軽く甘く見られる原因だろう。
この資質は、今も持っているから、軽く甘く見られるのかもしれない。
そういう人間との約束なぞ「どうでもいい」わけで、守られるはずがない。
私は性格的に指導者の器ではないことを、改めて思ってしまった(苦笑)
とりあえず、甘く見られている自分を反省。
「波風立たせないこと」を選んでしまうことも、甘く見られることの原因となるが・・・
ま、今現在であれば、たとえば、そのような失礼な友人(悪びれもせず、これといった理由もないのに、約束を平気で破り、連絡もよこさない)は、こちらから黙って離れるが
波風を立たせるほどのことでもない。
生徒の場合は、生徒側の事情を配慮し、何度も確認したにも関わらず、無理な練習を要求しているわけではないのに(中学生で週3日、20分ですむ量だ。1週間分で計60分以上)、何度も約束が破られる場合は、辞めるよう促すことにしている。
いや、ピアノを辞めさせるのではなく、私を指導者とすることをやめてもらい、ほかの先生につくことを勧めるのだ。
忙しくて、全く練習できない、そんなに時間がないのであれば、練習できる環境になってから、再開してはどうか、とも思う。
マイペースで練習したい人に対しては、フリーレッスンを勧める。
練習ができて、レッスンを受けたくなったら、改めて連絡をとり、来てください、というスタイルだが、ま、たいてい、フェードアウトして、やめるに等しいことになる^^;
「練習しない生徒を切るのは先生の傲慢、あるいは怠慢。もっと分かってもらえるよう先生は努力するべき」
「そんなことをしては仕事がなくなるので、生徒がお客様である楽器店の講師の立場では許されない。先生の甘え」
「冷たい」という意見もあろうが・・・(直に言われたわけではないが、これらも、もっともな意見である)
教える教わるの関係は人それぞれ考えがあることだろうが、生徒をやめさせる、というのは、その生徒の指導者としてふさわしくない、合わない、ってことを判断したからなのだ。
約束を簡単に何度も破るという人間関係は良くないし、
約束を何度も破るというのは、指導者を甘く見ているということであり、そのような指導者の下にいても、損をするのは生徒自身なのだ。
消費社会の世の中、「お金を出す側が上の立場であり、お客様である」と思っている子どもがいるという。
なので、教えることを仕事にしてお金をもらう先生を、「下」に見てしまう子も、ひょっとしたらいるかもしれない。もちろん、お金は【親】が出しているのであるが・・・
「仕事が減って、困るのは先生のほうだ」と生徒側が見くびっているのだとすれば、もう教える教わるの関係は成立しないだろう。
指導者は、自分を軽く甘く見ている人間に対し、切るべき時は切り、で、軽く甘く見られないようにしなくてはならない。(そのための努力は必要かも・・・ま、でも資質ってあるよなあ)
ということを「善徳女王」から学んだ(笑)
○「善徳女王」について補足。
ちなみに、この場面では、主人公はまだ「女王」ではなく「王女」である。
「善徳女王」は7世紀の朝鮮半島での初の女性の王。様々な困難を乗り越え、王女の地位を取り戻し、やがて「王」となり、国を治める話である。戦乱の世なので、戦争もある。難しい時代によくぞ女性の王が誕生したものである。(ドラマはフィクションだが、登場人物は実在した歴史上の人物である。)
余談。その1。
「上から目線」
もちろん、先生と生徒の関係であれば、教える教わるの関係だから、先生が「上から目線」になることは当然だろうけど。
何か意見や考えを言うと「上から目線」って言われることが多い気がする。
いや、直に私が言われたわけではないが・・・ネット上での、他の人たちのやりとりやブログで【上から目線】という言葉が氾濫しているように思う。
なので、意見や考えを言う時、「上から目線って思われるのかしら?」と心配になってしまう^^;
完全な独り言(=ブログ)であれば気にしないが、人との会話では、かなり気をつけないといけないようだ。
なんか疲れるが。
学校でも先生を生徒と対等に見たりする傾向にあるようだし
(・・・先生は生徒を下に見てはいけないということから教壇がない。【仰げばと尊し】は「先生への恩を歌にして強制させるべきではなく、先生に恩を感じるか感じないかは生徒それぞれの自由ということから、歌われなくなった、などなど・・・ま、もちろん、指導者としての先生側に問題がある場合もあるだろうが)
何かにつけ「上から目線」という言葉を見たり聞いたりする・・・「上から目線」に敏感な世の中・・・
「偉そう」「何様?」と相手につっこむために、
反対に、自分が下に見られることへのいらだちや反感を表すための「軽い表現」として、「上から目線」という言葉が使われることが多いのかしら。
指導者として生きる者は、そういった「上から目線が嫌いな世の中の空気」とも闘わなくてはならないのかもしれない。
余談その2。
「具体的な指導」
アドバイスや指導を受けるとき、感覚だけでは理解できない私は、より具体的な言葉で教えられると、「ああ、そういうことか」と頭で理解しやすくなり、頭で理解したものであれば、感覚でも理解することが可能になる^^;
たとえば、「音の響きを聞け」だと、どう聴いていいか分からないけど、「音の消え方(減衰の仕方)を聴け」となると、分かる・・・
で、それによって見えてくるものが分かってくる。
「汚い響き、きれいな響き」もそうだった。昔、私は分からなかった。
でも、「ソプラノとバスを強め、中は弱め、というような音の強弱のバランスを聴け」と言われれば分かる。
そして、感覚的にも「これが汚い音」「これがキレイ」というのも分かるようになってくる。
感覚的にすぐに分かる人もいれば、私のようにちょいと鈍感で、よく分からない人もいるのだ。
でも頭で理解できたものは、感覚でも理解できることが可能になる・・・(ことがある^^;)
頭で理解するには、私の場合、より具体的な言葉による指導やアドバイスが必要となってくる。
音楽は最終的には「言葉で伝えられるもの」ではないけれど・・・
指導する側に立った時、肝に銘じよう・・・
2012-05-29 16:12
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