自信がもてない人 [人生・生き方・生活・人間関係]
以前の記事「自信とコンプレックス」http://kayashi.blog.so-net.ne.jp/2010-05-05でも話題にしたことがあるが、基本的に自信がもてない性質の人、わりといるのではないかと思う。
私の場合は、元からの性格もあるだろうが、褒められるよりも否定されるほうが多かった育ち方をしたので、そういう性質を持ってしまったかもしれない。もちろん、否定されても仕方ない自分なのだから、当然なのかもしれないが。
そういう人間は、チャレンジしよう、と言われても、なかなか腰が上がらない。チャレンジしても勝算がうすいだろうし、どうせ私なんか・・・と思ってしまいがちだからだ。
けど、たまに「ぜひやってみたい」と思えるものが見つかることがある。
自信のない者=臆病な者=慎重な者ということでもあり、その慎重な自分が「これは、いけるかも・・・」「これは、やりたい」と思うものがあった場合、それはわりと勝算が高いことが多い・・・かもしれない。
もちろん、チャレンジしたことがすべてうまくいくわけではなく、でも、わりと惜しいところまで行く場合が多く、「全くダメ」というケースは少ないかもしれない。
自信がない者は、チャレンジの数は少ないが、勝算が高いものにチャレンジしている場合が多いかもしれない。
なので、「自信がない者」は、無理にチャレンジの数を増やさなくてもいい、と思うのだ。チャレンジの数が少ない分、成功数も少ないが、失敗数も少ないのである。
自信のない者が、失敗数を上げてしまうと、ますます自信をなくしてしまうことがあると思う。
ここが基本的に自信がある人との差、かもしれない。
自信のある人は、失敗を糧に、またチャレンジし、成功の階段を登っていくのだろう。
自信のない者だって、失敗数と成功数を重ねて、自分も自信がつけられればそれに越したことはないが・・・失敗したことに心を奪われ、ますます自信をなくし、ややもすると「どうせ自分はダメだから」と、すっかりあきらめモードになり、すべてが投げやりになってしまうこともあるだろう。
どうしても自信がもてない人は、「失敗を恐れない自信のある人のやり方」を無理して真似なくてもいいかもしれない。
臆病といわれようが、慎重に、勝算の高そうなものや、本当に欲しいものや、どうしてもやりたいことだけを絞って、チャレンジしたほうがいいかもしれない。
マイペースで、人と比較することなく、自分が本当に欲しいものを手に入れることだけを考えれば、案外、いい人生になるのではないか、と思うのだった。
自信のない者は、ついつい他者と較べがち(だからますます自信をなくす)・・・けど、較べないようにし(まあ、それができりゃ苦労しないけど・・・)、成功設定もかなり低めにし、うまくいったら御の字だと思うことにすれば、と。
自分にとっての御の字は、他者から見れば「それくらいで嬉しいのか?」という小さなことだろうが、幸福というのは、考え方次第だ。
成功設定を高め(普通)にしたがために、それに届かず不満に思うよりは、設定を低くし満足したほうがいい。
たとえば、人付き合いが苦手だった場合・・・人が挨拶してくれただけで、良しと思うのだ。
いや、挨拶するって普通だろ、と言われるかもしれないが、成功設定は低くしているのである。
無視されなかっただけでも御の字である、と。
「結婚の条件その4」http://kayashi.blog.so-net.ne.jp/2010-05-24にも書いたけど・・・
「誰もができて当たり前」のことなど基本的にない、と思ったほうがいいかもしれない。皆それぞれ、資質、才能、環境、運などが違うのだから。
「できなくて当たり前」「できれば儲けもの」なのだ。
まあ、自分が満足していても、世間様(周囲の人)は「それでいいのか」といろいろとケチをつけてきたり、見下したり、負け組扱いするので、「できないほうが普通だ」と思うのはなかなか難しいけれど。
「自信のない者」は基本的に高望みはしない、と思う。
そんな中で、もし「自信のない者」が何かを望み、人から見て「それは高望みだ」と思ったとしよう。
だが、その高望みは、自信のない者=慎重な者が、本当に欲するもの、求めるものなのである。
本当に欲するもの、求めるもの=夢中になれるものが見つかれば、かなり幸せだ。
「自分探し」というのは、たぶん、自分が好きなこと、求めるもの、目標を探していることをいうのかもしれない。
目標が見つからない、というのは、とくに若い頃はあせるかもしれない。人生を無為に過ごしている気分になるのだろう。
でも、そういうのを探せる余裕がある、というのも、恵まれていることかもしれない。
生活に追われていれば、そんなことを考える余裕さえないかもしれない。
そして、本当に欲するものや好きなこと、夢中になれるもの、目標が見つかったとき、自信があるかどうかなど気にならなくなるのだ・・・と思う。
「やっぱり無理」と思うのであれば、それは本当に自分が欲するものではないのだ。あきらめてもかまわないものなのだ。
まあ、でも・・・自信がない人の気持ちも分かるが、今現在、自分が振り返ってみるに、もうちょっと積極的になってもよかったかもなーと反省もするのであった。
本当にやりたいことはやってみたが・・・
「手にいれてみたかったが、手に入れなくても我慢できそうなこと」にはチャレンジしなかった。
けど、今なら分かるのだ。自信がなくて、ついつい卑屈になり、あきらめたことに対し、卑屈にならずにもうちょっとだけ積極的に出てみれば、もっと違う結果が得られたかもしれない・・・もったいなかったかな、と。
ただ、それも今だから分かるんであって、昔は絶対無理と思っていた。努力を放棄したのだ。努力を放棄した分、ラクだったとも言える。ラクを選択しただけのことである。
チャレンジするのも良し、しないのも良し・・・
で、チャレンジしないからといって、その人を「臆病」「怠惰」「なさけない」「負け犬」と批判したり、バカにしてもいけないのだ。
チャレンジするしないを選択するのは、個人の自由である。
私の場合は、元からの性格もあるだろうが、褒められるよりも否定されるほうが多かった育ち方をしたので、そういう性質を持ってしまったかもしれない。もちろん、否定されても仕方ない自分なのだから、当然なのかもしれないが。
そういう人間は、チャレンジしよう、と言われても、なかなか腰が上がらない。チャレンジしても勝算がうすいだろうし、どうせ私なんか・・・と思ってしまいがちだからだ。
けど、たまに「ぜひやってみたい」と思えるものが見つかることがある。
自信のない者=臆病な者=慎重な者ということでもあり、その慎重な自分が「これは、いけるかも・・・」「これは、やりたい」と思うものがあった場合、それはわりと勝算が高いことが多い・・・かもしれない。
もちろん、チャレンジしたことがすべてうまくいくわけではなく、でも、わりと惜しいところまで行く場合が多く、「全くダメ」というケースは少ないかもしれない。
自信がない者は、チャレンジの数は少ないが、勝算が高いものにチャレンジしている場合が多いかもしれない。
なので、「自信がない者」は、無理にチャレンジの数を増やさなくてもいい、と思うのだ。チャレンジの数が少ない分、成功数も少ないが、失敗数も少ないのである。
自信のない者が、失敗数を上げてしまうと、ますます自信をなくしてしまうことがあると思う。
ここが基本的に自信がある人との差、かもしれない。
自信のある人は、失敗を糧に、またチャレンジし、成功の階段を登っていくのだろう。
自信のない者だって、失敗数と成功数を重ねて、自分も自信がつけられればそれに越したことはないが・・・失敗したことに心を奪われ、ますます自信をなくし、ややもすると「どうせ自分はダメだから」と、すっかりあきらめモードになり、すべてが投げやりになってしまうこともあるだろう。
どうしても自信がもてない人は、「失敗を恐れない自信のある人のやり方」を無理して真似なくてもいいかもしれない。
臆病といわれようが、慎重に、勝算の高そうなものや、本当に欲しいものや、どうしてもやりたいことだけを絞って、チャレンジしたほうがいいかもしれない。
マイペースで、人と比較することなく、自分が本当に欲しいものを手に入れることだけを考えれば、案外、いい人生になるのではないか、と思うのだった。
自信のない者は、ついつい他者と較べがち(だからますます自信をなくす)・・・けど、較べないようにし(まあ、それができりゃ苦労しないけど・・・)、成功設定もかなり低めにし、うまくいったら御の字だと思うことにすれば、と。
自分にとっての御の字は、他者から見れば「それくらいで嬉しいのか?」という小さなことだろうが、幸福というのは、考え方次第だ。
成功設定を高め(普通)にしたがために、それに届かず不満に思うよりは、設定を低くし満足したほうがいい。
たとえば、人付き合いが苦手だった場合・・・人が挨拶してくれただけで、良しと思うのだ。
いや、挨拶するって普通だろ、と言われるかもしれないが、成功設定は低くしているのである。
無視されなかっただけでも御の字である、と。
「結婚の条件その4」http://kayashi.blog.so-net.ne.jp/2010-05-24にも書いたけど・・・
「誰もができて当たり前」のことなど基本的にない、と思ったほうがいいかもしれない。皆それぞれ、資質、才能、環境、運などが違うのだから。
「できなくて当たり前」「できれば儲けもの」なのだ。
まあ、自分が満足していても、世間様(周囲の人)は「それでいいのか」といろいろとケチをつけてきたり、見下したり、負け組扱いするので、「できないほうが普通だ」と思うのはなかなか難しいけれど。
「自信のない者」は基本的に高望みはしない、と思う。
そんな中で、もし「自信のない者」が何かを望み、人から見て「それは高望みだ」と思ったとしよう。
だが、その高望みは、自信のない者=慎重な者が、本当に欲するもの、求めるものなのである。
本当に欲するもの、求めるもの=夢中になれるものが見つかれば、かなり幸せだ。
「自分探し」というのは、たぶん、自分が好きなこと、求めるもの、目標を探していることをいうのかもしれない。
目標が見つからない、というのは、とくに若い頃はあせるかもしれない。人生を無為に過ごしている気分になるのだろう。
でも、そういうのを探せる余裕がある、というのも、恵まれていることかもしれない。
生活に追われていれば、そんなことを考える余裕さえないかもしれない。
そして、本当に欲するものや好きなこと、夢中になれるもの、目標が見つかったとき、自信があるかどうかなど気にならなくなるのだ・・・と思う。
「やっぱり無理」と思うのであれば、それは本当に自分が欲するものではないのだ。あきらめてもかまわないものなのだ。
まあ、でも・・・自信がない人の気持ちも分かるが、今現在、自分が振り返ってみるに、もうちょっと積極的になってもよかったかもなーと反省もするのであった。
本当にやりたいことはやってみたが・・・
「手にいれてみたかったが、手に入れなくても我慢できそうなこと」にはチャレンジしなかった。
けど、今なら分かるのだ。自信がなくて、ついつい卑屈になり、あきらめたことに対し、卑屈にならずにもうちょっとだけ積極的に出てみれば、もっと違う結果が得られたかもしれない・・・もったいなかったかな、と。
ただ、それも今だから分かるんであって、昔は絶対無理と思っていた。努力を放棄したのだ。努力を放棄した分、ラクだったとも言える。ラクを選択しただけのことである。
チャレンジするのも良し、しないのも良し・・・
で、チャレンジしないからといって、その人を「臆病」「怠惰」「なさけない」「負け犬」と批判したり、バカにしてもいけないのだ。
チャレンジするしないを選択するのは、個人の自由である。
2010-05-29 22:54
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