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自立・・・ [人生・生き方・生活・人間関係]

2011年12月13日
追記の追記。

フィギュアスケートの道を真剣に行くとしたら、やはり親の多大なるサポートは欠かせないという。

子どもに対し、子育て中心の生活をし、子どもにできる限りのエネルギーを注ぐ母親は、専業主婦であることが多いようだ。フルタイムの仕事を持ちながらというのは難しいだろう。

そんな専業主婦に対し、西原理恵子さんや勝間和代さんなどの社会的成功者の女性は・・・「子ども中心の生き方は偏っているl、子離れし仕事を続けるべき=経済的自立するべきだ」というような批判をしていたように思うが、どっちの生きかたもプラス面、マイナス面があるのだろう。

どっちの生きかたが幸福で、どっちが不幸かも言えない。良い悪いも言えない。

子どもの健康のため、手作りの栄養バランスの良い安全なものを食べさせたいならば、料理ひとつにも時間がかかるだろう。

もちろん「母親は仕事をやめ、子ども中心の生き方をするべき」というのもおかしい。
しかし、だからといって、専業主婦を批判したいがために、子育てや家事にエネルギーを注ぐことをバカにしてもいけない。
何に価値をおくかは、人それぞれだろう。

個人がやりたいようにやればいいと思う。
あるいは、そうせざるを得ない場合もあるだろう。稼がなきゃ生活できない場合、仕事を持たざるを得ないだろうし、あるいは子どもが重篤な持病を抱えていては、仕事をやめざるをえない。

もちろん、社会的成功者の方は立派だと思う。人の何倍も苦労があっただろうし、努力もされたのだろう。
しかし、自分の「自立した生き方を良し」とし、違う人の生き方を批判するのは、おかしいように思う。(何度も書いているけれど、つくづくそう思った。)

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追記。
「2010年4月15日の記事」の追記です。なぜ今頃、追記なのかというと、このページで「浅田真央選手のこと」に触れていたからです。

浅田選手は、ずっと昔から母親の深刻な病気を知りつつ、不安で仕方なかっただろうに、しかし周囲にはそのことを微塵も見せずに、今まで闘ってきたのだなと、改めて浅田選手の精神力の強さに感嘆してしまった。

残り時間が少ないことを覚悟しながらの浅田選手と母との密着に対し、事情を知らなかっただろうとあるところでは「自立したほうがいい」などという意見もあったようで、もちろん、当時も多くの人がそれに反論し、私もこの記事で取り上げ、反対意見を述べたが・・

つくづく、その人の事情をよく知らない者が、その人の生き方にアドバイスという形でケチをつけたり、批判することは恥ずかしいことだなと思った。

人の生きかたをアドバイスするよりも、まずは己の生き方を振り返ったほうがいいかもしれない。

また浅田選手に対し「幼い」と評した人たち(演技だけではなく、浅田選手の生きかたも含めて、そう評していた印象だった)も、今は恥ずかしい思いをしているのではないだろうか。浅田選手は小さい時から母親の深刻な病を知りつつ、覚悟をしつつ、生きてきたのだろう。浅田選手を「幼い」と批判した人よりもよほど精神的に大人かもしれない。


ちなみに「自立その2」はこちら→http://kayashi.blog.so-net.ne.jp/2010-05-27

※自立している人は、自立していない(と見えてしまう)人に対し、優越感を持ってしまうのだろう。とくに社会的成功者の方は、アドバイスと言う形で、人の生き方の批判までしてしまいがちのように思う。
が、その人の生きかたによって、直に被害や迷惑を受けている人だけしか、批判する資格はないかもしれない。

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2010年4月15日
今回は、女子フィギュア関連記事http://kayashi.blog.so-net.ne.jp/2010-03-30の訂正をしていたとき、ちょっと興味をひいた記事を見つけてしまい、それについて考えさせられてしまったのだ。

テーマは「自立」について。

これから書いていく記事の一部分は、たぶん、小さい時から親がかりでピアニストを目指す人たちにも共通する話題なのでは、とも思う。

そう、ピアニストを目指すのに、どうしても親の多大なる協力が必要になる場合が多い。親の力は大きい。先生のレッスンについていき、子供が家で練習する時、先生の言っていることを守っているか目を光らせる。練習を怠ければ叱咤する。子供に付きっきりで、子供のために尽くす。
けれど、そんなステージママ(あるいはパパ)がついていて、ある程度の歳になると批判されるのだ、「自立しろ」と。なので、ピアノと全く関係ない話題とも言い切れないのである^^;


さてさて・・・
「自立すること」がものすごく正しいことで、自立できない人しない人はダメ扱いとまではいかなくても、批判されるようになった気がする。

世間では、「恋愛できない人しない人」「結婚できない人しない人」「努力できない人しない人」以上に、「自立できない人しない人」はあげつらわれ、「自立しろ」「いつまでも甘えんな」と責められているような気がする。
「恋愛できない人」「結婚できない人」「努力できない人」以上に・・・批判するほうは、「自立できない人、しない人」を【遠慮なく】ダメ扱いしている気がする。

ちなみに、自立とは・・・経済的自立と精神的自立、二つがないと「完全に自立している」とは言わないんだそうだ。厳しいね。

もちろん、自立している人はとっても立派だと思う。
恋愛している人も結婚している人も子供を育てている人も努力している人も立派である。
それらは大変正しい行為であり、正しい生き方なのだろう。
さらに、これら全てやっている人やった人はほんとうに立派だと思う。

だからといって、それらができない人しない人を見下したり、批判したり、「しろ=した方がいい」というのはおこがましい気もする。

ここでよく話題にしている「勝間和代さん」も自立することをものすごく重視しているらしい。
他の人たちも「自立することは一人前の人間としてとても重要なこと」「自立できない人はダメだ」という感じで、自立できない人を切っていく。

まずは、こんな記事を見つけた。浅田真央選手に対して、浅田真央選手の世話をやく母親から、浅田選手は自立したほうがいい、とかいう内容だ。(もちろん、それについて、たくさんの批判コメントが寄せられたようだ)
http://ameblo.jp/mimiskate/entry-10470628721.htmlより抜粋

【今、私が浅田選手に望むのは、一人の自立した人間になってほしいということです。
一人暮らしをするかコーチ宅に住み込むなどして、お母様から離れることも一案かと。】

抜粋終わり。

>この記事を書いた人を批判するつもりも、槍玉に挙げるつもりもない。ただ、ここで取り上げるということは、結局は、批判していることになるのかもしれない。けど記事を書き、公にした段階で批判(感想)は付きものである。なので、この方も批判コメントを開示しているのだろう。私の記事だって、どこかで批判されているかもしれない。「偉そうに・・・何様?」と思われているかもしれない。

ということで、「浅田選手は自立したほうがいい」という記事について、興味をひいたので取り上げ、感想を書こうと思う。

浅田真央選手について「自立したほうがいい」って書いたことは、この記事を書いた人は「浅田選手は自立していない」と見なしたと受け取っていいだろう。

けれど、あの大舞台で世界を相手に闘うだけでも、充分立派だし、精神的にもタフでないとできないことだ。世界的な舞台に出てくる人たちは、きっとものすごい精神力の持ち主だろう。つまり、精神的自立ができている人間でないとできないことだろう、と思う。

なのに自立できていない、と言われてしまう。
なぜ?母親が世話を焼いているから?一人暮らしをしていないから?親の家にいるから?でも、浅田真央選手はまだ19歳で未成年・・・

親が子供のために尽くし(もちろん、その分いろいろ干渉するのだろう)、子供がそれを受け入れていると「自立しろ」と言われるのだ。

もちろん、この「浅田真央選手に対して自立を促すような記事」には批判が集まった。

ただ・・・このような記事を読んで思った。
ステージママ(あるいはパパ)がいて、活躍している人は、きっと周囲からよく言われるんだろうな、「自立しろ」って。

けど、活躍できるようになるまで、親の協力が必要だろうし、親の夢や希望、期待に応えようという気持ちがモチベにもなり、並々ならぬ努力を続け、活躍できるってこともあるだろう。
ただ、それは他人から見ると「親がしゃしゃり出てくる」「親がついてくる」「自立できてない」と思われるのかもしれない。

けれども、親が後について活躍している人たちは、おそらく「自立しろ」と批判している人たちより、ずっと精神的にタフなはずだ。とくに一発勝負の世界に生きる人たちはそうだろう。
そして、おそらく「自立しろ」と批判している人たちよりも、努力しているだろうし、おまけに稼いでいるだろう^^;

ちなみに、一発勝負の世界はほんとうに怖いし、厳しい・・・
しかも、人々に注目されるような舞台で活躍するのに、精神的に強くないとやっていけないのではと思う。
世界的規模になれば、それはもうそれは、とてつもないプレッシャーになるだろう。それに打ち勝たなきゃいけないんである。

まさか、自立すれば=親から離れれば、一皮むける、とでも考えていたりして?
でも、このクラスになると、そんな簡単なことで一皮むけることはないのでは、と思う。ただただ自分自身と闘い、プレッシャーと闘い、ひたすら努力するしかないのだろう。親からちょっと離れた程度で、なにかが変わり、レベルアップできるなどという容易い世界ではないだろう。

というわけで、あのように世界的に活躍し、世界の頂点にたった経験のある人でさえ、親の姿が見えてしまうと「自立しろ」などと言われるのである。
けど、別に親と上手くいっているのなら、双方がそれでいいならいいんじゃないの?と思う。
他人にとやかく言われることではないだろう。

なので、普通の一般人であれば、それはもう何かと言われるのだろう、圧力かかるのだろう、「自立しろ」って。

そういえば、益田ミリの「結婚しなくていいですか。(すーちゃんの明日)」にもあったっけ。
親の家に住んでいる30才過ぎた登場人物が言うのだ。「一人暮らしがそんなに偉いか」


独身者が親の家に住んでいると言われるのだろう。「自立しろ」と。
ほか、おそらく専業主婦なども「夫に(経済的に)依存している」などと言われることもあるだろう。

けど、昔は、とくに女性は一人暮らしをしている人など少なかっただろうし、嫁に行かない人や出戻りの場合も親の家に住んでいただろう。(もちろん、昔は昔で、肩身が狭かったし、厄介者扱いもされただろう)
いろいろ危険なこともあるだろうし、一緒に暮らしてくれる人がいたほうがいいに決まっている。
専業主婦だって、役割分担ということで、そういう生き方だって、もちろんありだろう。

一緒に暮らし、その中で役割分担し、家庭を運営していく、家族として一緒に生きていく、ということで、当事者達がいいのなら、いいのではないかと思う。一人暮らしをするのか、親と一緒かは、あくまでも当事者間の問題である。

つまり、当事者以外の他者が口出すことではないのだ。
それは「自立」だけではなく、「恋愛」「結婚」などもそうだ、と思う。

けど、世間様、メディアに出る人たち、もしくは一般人でさえ、口出ししたがるようである。
「自立したほうがいい」「恋愛したほうがいい」「結婚したほうがいい」と。

※ところで「努力」については、「恋愛」「結婚」とは少し質が違うようにも思う。
生まれてこのかた、努力したことがない人などいないだろう。努力の大小を問わなければ、努力をしたことのない人は皆無だ。たとえば、学校に行って読み書きを勉強したことも努力したことになるのだ。この日本で、読み書きが全くできない健常者はいないだろう。この世に生きていて、全く努力してない人はいないのだ。
が、恋愛や結婚は別だ。したことがない人というのはいるだろう。ちなみに「恋愛」とは、とりあえず両想いで(相手は単なる遊びだとしても)、1対1のお付き合いすることを言うらしいから、付き合いに発展しなかった片思いは入らないらしい。

さてさて・・・
この「自立」について、よく分からないのが・・・

社会で働いている子持ちの既婚女性が、実家の親に自分の子供の面倒を見てもらい、親に助けてもらっている、ということは良いようである。

結婚をし、子を産み、仕事をやめずに稼ぎ、経済的にも自立している偉い立派な人であるのは確かなのだけど・・・親に自分の子供の面倒をみてもらっている時点で、役割分担している、ということであり、親に助けてもらっているということでもあり・・・これについてはどうなのだろうか。

もちろん、これらを全部一人でこなすなんて大変なので、助けてもらうっていうのはごくごく普通のことだと思うし、助けてもらわないとやっていけないだろう。
子供は手のあいている人が協力し、皆で育て、家庭運営も、いろんな人の力を借りて、助け合ったほうがいいと思っている。

そうそう・・・不思議なことに、結婚さえしていれば、親の家に住んでいても、親に依存している、とは言われないようだ。
そして、一人で暮らしている人、あるいは結婚さえしていれば、住んでいる家やマンションを親に買ってもらったという人も、単に恵まれた人、ということで、これも親に依存している、とは言われないようである。

なのに、独身者が親の家に住んでいる場合は「依存している。自立しろ」と言われるようだ。

なので、何をもって自立というのか・・・助けてもらうことと依存することの違いとは何なのか?

私は、自立の定義がよく分からないのである。

・・・誰の助けも借りずに生きていくことだけが「自立している」とは言わないようである。助けてもらってもいいようである・・・

けど、一方は依存している自立してないダメ人間、一方は助けてもらっているけど自立している偉い人、ということになるのである。

それにしても、つくづく・・・当事者でもないのに、当事者から相談受けたわけでもないのに、人の生き方を公に批判(または、批判という名のアドバイス)する人って、自分の生き方に自信がある人なのだろうな、と思ってしまった。

なので、当然、「そういうあなたは人様にアドバイスしたり、批判したり、おすすめできるような正しい立派な生き方をしているのか?」といろいろ探られたりするのは仕方ないのかもしれない。


ところで・・・

恋愛したり、結婚したり(子供を持ったり)、自立したり(親から離れて一人暮らし)すれば、消費することになるだろう。つまりお金を使って、いろいろとモノをそろえたりしなきゃいけなくなる。恋愛の場合は見栄も張るだろうから、それなりにお金をかけることになる人がわりといるだろう。

消費によって経済が活性化し成り立つ社会にとって、恋愛したり、結婚したリ、自立=親から離れて暮らすことは、消費につながり、プラスとなるから、世間はこれらを行うことを奨励し、これらを行わない者を批判したり見下したりするのかも・・・と、ちょっと穿った考えをしてしまうのだった。

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追記。

「大学の入学式に親がついてきて会場に入りきらない云々」というニュースに、上の世代の人たちは「自分たちの時代は親なんてついてこなかった」「親がついてくるなんて恥ずかしかった」「親離れ子離れできていない」と、なんだか「若者が自立していない」「恥ずかしい」というような批判めいたことを言っている。

だが、ふと思ってしまった。
ほとんどの学生たちの大学の入学金と授業料を出しているのは親だろう。だから、そういった投資先?の入学式に投資した者が行くのは当然かもしれない。ガイダンスも受けたいのかもしれない。

親が大学の入学式にくることを批判するのならば・・・当然、批判している人は「大学に入学する際に、親にお金を出させていない人」または「親に借りた形にして、後で親に大学の入学金や授業料を全額返済をした人」なのだろう・・・・・・・・・か?

もし、お金を親に出してもらい、返さないつもりなのに、親が入学式に出たいというのを「出るな」と言うのこそ、傲慢な気もしたりする。

果たして、親が大学の入学式に出席することを批判している人たちの中で、ご自身が大学で勉強するのに、親に一切援助を受けなかった人、またはちゃんとお金を返済した人はいったいどれくらいいるのだろう。

で、不景気なこの今の時代、授業料をバイトでなんとかしている苦学生も多いと聞く。
なので、きっと批判している上の世代の人たちも、授業料くらいは自分で出していたに違いない・・・よな?

いえ、人を批判するのはかまわないと思うけど、その代わり、自分も問われてしまうのかもしれない。「お前はどうなんだ?」ってね。

なので、逆に思うのだ、人を批判する人はそれはそれで立派な行為だと。自分も今までの生き方を他者に問われてしまうのを覚悟で批判しているのだろうから。
人の生き方を批判する人はさぞかし立派な生き方をしているに違いない。


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